2010年2月

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●I'm sorry!と情報ムラ社会

トヨタの事件がニュースを賑わしています。アメリカの公聴会でトヨタの社長が弁明しなければならなくなった、なんて前代未聞。不思議なのは、トヨタがもっと早く何でI'm sorry!と言わなかったのか、ということ。トヨタには危機管理の専門家がいないのかね?

なぜなら、死亡事故が起こったら、まず最初にすべきなのは、I'm sorry!と 遺憾の意を表明することだからです。こういう事件が起こったについては、本当に申し訳ない。原因はまだ不明だが、速やかに調査したい、って。それなのに「トヨタのメカニズムに責任はない」とか抵抗していた。こういう態度が被害者およびマスコミを怒らせるのです。

それに、I'm sorry!と発言したからって、それで法的責任を追及されるわけじゃない。アメリカではI'm sorry!法というものがあって、ごめんなさいといったぐらいで「責任を認めた」とならない。もちろん、裁判が起こったら、訴えた側はI'm sorry!と言って責任を認めたじゃないか、と言い張る。それを心配して責任を認めまいとしたのかも。しかし、こういう事件が起こったのが遺憾であると述べたまでであって、責任を認めたわけじゃない、と言えば、裁判でも通るはずです。

これは医療事故が起きた際には常識。ハーバード大学の病院で「もし、ことがうまく行かなかったら」というパンフレットが出ている。去年翻訳作業が行われ、私も一部分参加したのだけど、その趣旨はシンプル。事故が起こったら、まずI'm sorry!を言いましょう、ということ。その後で原因はまだ分からないけど、一緒に解明しましょう、と言う。これで、被害者側と病院は対立関係に陥らず、事故という状態を解明するという同盟関係に立てる。結果として、裁判になる確率はぐっと減る。この翻訳は、「新しい医学の形」賞をもらっている。

実は、私はさらに前、7年ぐらい前に、日本のデータを使ってほぼ同趣旨の論文を書いている。某大新聞の薬害報道を時系列で追っていった。事故が起こると報道機関は「病院がけしからん」と声高に批難するけど、しばらくすると「その薬を使わざるを得なかった事情」などもだんだん報道されるようになり、より客観的な報道になり、騒ぎはやがて沈静化する。だから、病院の対応としては、まず、そこまでの時間を稼ぐべきだと提案したのです。

ただ、私が最初にこの論文を発表したときは、「意味/趣旨が分からない」と悪評だった。「医療側に落ち度がないなら、主張すべきだ」と言うわけ。分かってないね。情報化社会では悪評はすばやく広がり、初動の対応を間違うとひどいことになる。ブログの「炎上」を見てりゃわかる。真実なんて忘れられて、悪いイメージだけが拡大する。マクルーハンはメディア社会は「地球村」になると予言したけど、まったくそのとおり。「近代個人主義」より、むしろ「人情を見せる」方がずっと有効なのだ。

だいたい、医療事故など、原因を調べていけば、システム・エラーであることが多い。つまり、ちょっとした間違いや思い違い、ないし、やむを得ない事情が積み重なって、問題が顕在化するのです。現代のシステムは、それなりにちゃんとしているので、いろいろ調べていけば「この状況なら、無理もないな」となる確率が高い。悪意で事故が起きるのは、よほどでなければあり得ない。だから、原因が分かるまでの時間が稼げれば、自然に沈静化する。それを「不具合はない」と自分の立場を主張して突っ張るから、「誤魔化している」と悪役に仕立て上げられる。

なぜなら、大衆は、企業に対して、日頃ボンヤリと恨みや被害感情を抱いているからです。「俺たちは上手く行っていないのに、何で彼奴らだけ」と感じている。嫉妬の感情ですね。だから、チャンスさえあれば攻撃しようとする。その感情をストップさせられるから、かえって爆発する。

雪印が良い例。製造過程の誤魔化しやいい加減な管理なんて、よく考えれば大したことではない。被害は下痢したぐらい。人が死んだわけではない。過去には、森永砒素ミルク事件などひどいのがあった。これぐらいで企業が潰れるくらいなら、森永なんて万死に値する。でも、雪印は潰れ、森永は生き残った。時代の差とは言え、不公平だね。でも、そういう些細なことで問題が拡大するのが現代です。「私は寝ていないんだ!」という社長の一言で、「反省していない」という怒りの世論が盛り上がり、結局つぶしてしまった。今考えれば、雪印は北海道有数の企業だったのだから大きな損失だ。

でも、報道機関に自重しろったって聞きはしないよね。なぜなら、大衆になりかわって、怒りを表現するのが自分の使命だと心得ているからです。それで社会が変われば、自分達の能力が証明される。だから、告発に一生懸命になるし、煽り立てる。アメリカの議員だって、それと同じ。だったら、そういうムラビトたちの行動パターンを初めから予期して、手を打っておくのが危機管理ってものでしょう。

今度のトヨタの場合も、事故が起こったら、「こういう事故が起こったのは遺憾だ・残念だ。原因をきちんと調査したい。遺族には出来るだけのことはする」と同情溢れる身振りをつけて言えば、ここまで問題はこじれなかった。その機会を逃して「システムの不具合はない」(たぶん本当だろう)などと突っ張ったから、対応が後手に回り、さらし者にされる。だから「騒ぎを起こしたのだから、とりあえず頭下げときなさい」…どっかで聞いたような台詞ですが、これが正解なのだと思う。日本人で国際社会に出て行く人は、つい「近代個人主義」の信奉者になりがちだけど、実は日本のムラ社会の倫理の方が汎用性があるのかもしれませんね。


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Don't Worry! という知恵

社会の不安指数が上がっている気がします。一番大変なのが職業不安。いったい自分は働けるのか、何をしたらいいのか、今の仕事を首になったらどうしたらいいのか、路頭に迷わないか、社会からはじき出されるんじゃないか、などなど、不安が黒雲のように渦を巻いている。

でも、私の経験から言うと、こういうときだからこそ“Don't Worry!”と言いたい。そういえば、うちのスタッフのYくん、予備校教師なのだけど、数年前に一番力を入れていた働き場所から切られてしまったそうです。週に4日行っていたし、生徒の評価も高かったので安心していた。それなのにあえなくクビ。

一時はどうやって生活しようかと途方に暮れた。結婚した矢先だったから奥さんにも言いにくい。思いあまって、先輩に相談したら「心配するな。この職業、誰にでも一回はそういうことがある。最初はパニクるけど、半年経ったら何とかなる。そのかわり、収入は3割減になるけど」と言われたとか。

見事なアドバイスですね。先輩とはこうありたい。最初に「誰でも」とはじめて安心させ、その後、どのくらいで復帰できるか、だいたいの見通しを予測、しかし、それが確実に自己の現在評価の切り下げにつながることも付け加える。Yくん、半信半疑だったけど、実際に、半年経ったら何とかなった。収入もだいたい言ったとおりになった。

現代のシステムはそう簡単に人を餓死させたりしない。だから、大問題とはたいていは「脳の中の出来事」です。プライドが高いと、逆境になったときに「オレは能力があるはずなのに、なぜこんな扱いをされなけりゃならないんだ」と感じる。しかし、これは、状態が悪い方に回り出すきっかけになることが多い。

外に原因が見つけ出せても、たいていは「グローパル化」とか「不況」とか「少子化」とか、自分ではどうにもならないことばかり。怒っても何も変わらない。それに、そういう状況でも「うまくやっている」人はいくらでもいる。そうすると、心の歯車は逆回りし出す。悪い状況の原因は自分になり、自分を責めたり自信を失ったりする。周りに鬱が多いのは、こういう状況だと思う。

本来なら、「認めたくない状況」があっても、それがどうにもならないなら、次第に受容してあきらめる。精神科医のキューブラー・ロスは、「余命が短い」と告げられた難病患者の反応は一定のコースを辿ると言います。まず「認めたくない状況」を否認する。でも消えない。「何でこうなるんだ!」と怒りをぶつける。原因を探して改めようとする。ふさぎ込む。鬱屈の末に(たいてい48時間だとか)、どうにもならない現実を受容していく。

失業したって、生命がなくなるわけではないのだから、辛さは難病患者よりずっと少ないはず。でも、自分の目の前の辛さで一杯になって、それが感じられない。Yくんも、失職当時は「お前に仕事があるならオレにくれ!」と誰彼構わずつかみかかりたいほどせっぱ詰まっていたのだとか…。危なかったね。

そういうときに、自分の気分がどう変わっていくか、あらかじめ予想が付いたら無茶なことはやらなくて済む。その意味で、先述した先輩の言葉は見事です。「辛いことはあるかも知れないけど、それは耐えられる程度なのだよ。死ぬほどのことではないよ」とメッセージをくれる。Yくんが「先輩の言うとおりになりました」と報告したら、彼は「ね、やっぱりそうだったろ? ところでジョギング続けている?」と淡々と言ったとか。この平静さがたまらなくカッコいいですね。

どんな人でも悪い巡り合わせっていうときはある。麻雀だって、悪い配牌のときは何をしても無駄。あがけばあがくほど状況は悪化する。自分の努力だけではどうにもならない大波に巻き込まれる。だから、じっと死んだふりして通り過ぎるのを待つ。これだけ状況が悪いのだから、何か原因があるはず、と思いこまない。原因はない! 責任もない! ただの回り合わせ。先に期待する。

それを「悪いのは…のせいだ」と無理に因果を想定すると、いろいろ摩擦が起きるし、もっと悪いことを招き寄せる。今の日本はそういうムードに充ち満ちている。「政治が悪い」「経済が悪い」「アメリカが悪い」「若者が悪い」「高齢化が悪い」「格差社会が悪い」……でも、どれだけ「これが原因だ」と特定しても、それを排除しようとすると予想していなかったところにキシミが生じ、かえっておかしなことになる。カイゼンしようとすると、たいていどこか他に無理がかかって、さらに全体が悪くなる。そういうものです。

悪者探しはもう止めよう! そして、すこしずつで良いから、今の状況を受容して、出来ること・続けられることをしよう。それが、先輩からのメッセージの本質なのでしょうね。



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社会的カテゴリー・ミステイク!

 ひょんなことから、DARCのKさんとお話をする機会がありました。ダルクはご存知でしょうか? 薬物中毒の人たちの自立援助施設と言ったらいいのか。でも、今の活動はもっと幅広いようです。Kさんは私が竹内演劇研究所時代に一緒に活動していた30年来の古い友人。彼女自身も昔アルコール中毒だったことがあるらしく、そこから立ち直るのに大変な苦労をした。その経験から、今はDV、薬物中毒などの問題を抱えている人をカウンセリングして、ケアするのが専門だとか。

 
いちばん面白かったのが「境界性人格」の話。何年か前から、精神病というほどではないけど、異常な言動を繰り返す人々が異常と正常の「境界」という意味で、「境界性人格」と言われていたのだけど、どうもそのネーミングが実態と違うらしい。彼女に言わせると、実は「境界性人格」の大部分は知的な障害を持っているようなのです。だから、人の言うことを十分理解できず、不満を募らせてクレームを繰り返したり、問題行動を起こしたりする場合が多い。

  そういう人たちに話を聞くと、「小学校三年生くらいから学校が楽しくなくなった」らしい。調べてみると、通信簿は1,2,1,2の繰り返し。こういう状態でも、性格がおとなしければ、今の日本の学校では高校中退あるいは卒業までは何とか行く。知識・理解力は小学校3年生のままでも成人として通用する。彼らは、自分の住んでいる世界が知識のすべて。だから、文京区に住んでいれば、「文京区役所」という概念は理解できるけど、その先、「東京都議会」「衆議院」などとなると、もう分からない。30歳になるまで、自分のいる区の外に出たことのない人もたくさんいるとか。経験・知識の幅が極端に狭いのです。

 Kさんは、こういう人に「江戸時代」という概念を教えようとして苦労したとか。昭和、大正、明治までは何となくイメージを持てたとしても、それから先は「昔」になってしまうらしい。1つ、2つ、いっぱいと数える数の数え方みたいなものです。じゃあ、彼らは「水戸黄門」などはどうやって理解しているのか? 「たぶん、分からない情報はスルーする習慣になっているのよね」とKさんは言う。

 
こういう人が「楽しみ」とか「快楽」とか言うと、つい「暴力」「セックス」「ドラッグ」だけということになりがち。世界が狭いので、もっと複雑な「楽しみ」や「快楽」、たとえば絵を見たり、音楽を聴いたり、人と知的な会話を楽しんだり、というような楽しみがあることを知らない。理解する能力がないので、一番低次元の快楽に閉じこめられる。

 だから、こういう人たちが楽しいことをしようすると、事件を起こしたり巻き込まれたりしやすい。自分達に理解できる快を追求すると、人から指弾される。でも、これらは彼らにとって唯一の快だから、いくら注意されても直らない。いつの間にか、犯罪者という社会的カテゴリーに入ってしまう。ピエール・ブルデュー式の言い方をすると、「文化資本が少ない」ので、犯罪者のカテゴリーになってしまうわけ。何とも悲しい話ですね。

 昔ならば、こういう人々が社会に適応する道はちゃんとあった。たとえば、職人になって、一日座ってコツコツやっていれば、それなりに平和な暮らしができた。(断っておきますが、私は職人全般が知的に劣っている人たちだなんて少しも言ってませんよ。優秀な人はたくさんいます。)しかし、今の時代はそれがかなわない。単なる手仕事は、どんどん途上国に流れていく。情報化が進んで、すべての人がsymbolic analystみたいになって生産性を上げることを要求される。つまり、言語や映像、価値などに通暁して、それを分析・加工し、利益を得ることが現代の仕事で、それ以外は「途上国の仕事」になっちゃう。「ものづくり」もマーケティングが強調され、消費者が望むモノを作らなきゃいけない。情報通でない人は「落伍者」のように言われる。知的にすぐれていないと生きづらい世の中になっているわけです。

 でも、「知的にすぐれている」人がいるのは、「知的にすぐれていない」または「劣った」人がいることで「すぐれた」と言われる。「すぐれた」人が意味を持つためには、「劣った」人と比較しなきゃならないからね。したがって、「知的にすぐれている」人は「知的に劣った」人を必要とし、そういう人がいるから評価もされ、高収入も得られる。だから、ある意味では「知的に劣った」人は「知的にすぐれた」人のメリットを支えている。

 それなのに、「能力主義」で「知的に劣った」人はバカにされ、国家・社会から疎んじられる。「能力のない者は去れ」って言うけど、彼らが住んでいた町から追い出されてどこに行くのか? 中国の奥地ですか? カンボジアですか? 経済の論理から言えば、そういう労賃の安いところに行くべきでしょうが、経験が少ない人はそもそもそんな遠いところに行く術も想像力もがない。それとも、そういう人ばかりを集める強制収容所でも作るんでしょうかね?

 それに、もしそういうところが出来たとしても問題は終わらない。残った人でまた競争するから、その中でまた相対的に「知的に劣った」人が出現する。ある経済学者の説によると、イノベーションがなくても、毎年2%ほど生産効率は上がるのだとか。とすると、2%の経済成長がない限り、毎年2%の人が不要になる。つまり、2%の労働力は過剰になって「去れ」と言われる。そのうち、日本はどんどん「すぐれた人」ばかりになって、人数が少なくなる。論理の帰結として、日本はたった一人の国民しかいない国になるかも知れない。でも、きっと、その「すぐれた人」は自分のすぐれぶりを比較する他人がいなくなって、生きるのが嫌になるだろう。つまり、経済のロジックを極限まで追求すると、国家は消滅する。

 ことほど左様に、経済のロジックと国家のロジックとは違う。とりあえず「日本」に生まれたからには、「能力のない者は去れ」なんて言わずに、「すぐれた人」も「すぐれていない人」も何とか生きられるようにするのが、道理だろう。それが安全と平和を守るために「社会契約」した国家の使命だろうと思う。でも、「競争があればすべて上手く行く」という新自由主義の主張で、そういう基盤が根こぎにされてしまった。崩壊してしまった「公共性」をどうやって、再構築するのか、頭が痛いね 。

 ところで、「境界性人格」と付き合う一番良い方法は何か? ことを厄介にするのは、ここでも「人はみんな平等な能力がある」という思いこみだそうです。クレーマーだの「境界性人格」に対して、みな「話せば分かる」と考えて、一生懸命説明しようとする。でも、理解力がないから。いくら話しても埒があかない。Kさんが言うには、「そういう人たちは集団で色々約束事とか話しても絶対に分からない。だから、後で一人ずつまた呼んで分かったかどうか丁寧に確認する」のだそうです。

 「ある意味で、そういう障害がある人だって認めちゃえばいいのだよね。そうすれば、みな優しく振る舞えるわけ」。看護婦さんなど優しいから、相手が障害者だと思った途端に、言葉の調子までが変わるという。つまり、みな平等ではなくて、そういうケアを必要とする人がこの世にはいて、その人にはそれにふさわしい扱いをする。これは、ちょっと刺激的な言い方かもしれないけど、「新しい身分制」だと思う。

 日本も「みんな平等」を追求したあげく、「みんな平等」ではうまく行かない状態にたどりついてしまったわけですね。恵まれた人は、それなりに恵まれない人に気を遣う必要がある。だから、これからのみなの合い言葉は、Noblesse Oblige(社会的地位のある人間は、それなりの義務を負う)となるに違いない。




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