2010年7月

7/16

インドネシアの「貧しさ」とAKB48の「貧しさ」

日曜日に代々木公園でインドネシア・フェスティバルがあるというので、行ってきました。我らがグル(「先生」という意味のインドネシア語です)加藤君が歌うというので、聞きに行ってきたのです。写真はもう載せたけど、フェスティバルはなかなか面白かった。加藤くんがインドネシア・ポップスを歌うと、集まってきた人たちはもう大騒ぎ。いつもは、企業研修生とか留学生とかやっていて、一生懸命働いて/学んでいるらしい。それが、一気に爆発したというかハジケタというか。

彼らはけっして高くはない給料で一生懸命働いている。工場などがあるところも、茨城とか「田舎」が多いようなので、娯楽も少ない。スーパーで買い出しして、皆一緒にご飯を作って食べるのが楽しみだとか。質素な生活をして、故郷にせっせと仕送りする。かつてあった出稼ぎとか「おしん」などの世界ですね。けなげの正統派。

一方、隣の体育館では、AKB48なるグループのコンサートをやっていました。その結果、歩道橋に人が溢れて、インドネシア・フェスティバルの会場に行くまでが大変。そこの人々の顔を見ると、髪を染めたり流行の服装をしたりしているけど、みごとに「田舎」の顔をしている。きっと、インドネシア出身の企業研修生たちが働いているような地域が、AKBを追っかける若者たちの生活圏なのだろう。

「どうして田舎ってわかるの?」って言われると困るけど、強いて言うと、あまりにも型にはまっていて「現代の若者の典型」になり過ぎ、外しがないところ。別にそれが悪いと言っているわけではない。でも、身の回りでわかることだけを追っていて、その範囲で「自分の好み」を成立させている狭さが感じられる。世界の先進国である日本に、これだけ田舎っぽい人たちが集まるとは、スゴイと思う。

帰り道に見てみると、AKB48の観客はほとんど体育館に入っていたけど、切符を買えなかった人が四五人ずつ車座になって、グループの写真とか見せ合って楽しんでいる。ささやかでほほえましい。でも、日本に来ているインドネシア人と違って「けなげ」ではない。なぜか? 運命に翻弄されつつも頑張っている感じがしないから。むしろ自分の欲望を追求していて、でも貧しいから。

貧しさは同じだけど、インドネシアの人たちは物質的に貧しく、AKB48のファンたちは文化的に貧しい。前者は自分が貧しいのを明確に自覚し、後者はそうは思わない。きっと「貧しい」って言ったら「余計なお世話だ」って怒るだろう。「趣味の違いだろう。お前こそAKB48の良さがわからないなんて、感覚が貧しいよ」って。そうかもしれないね。

フランスの社会学者P. ブルデューは「文化資本」という言葉を発明しました。文化もお金と同じように蓄積できる。お金を貯めたことがある人は誰でもわかるけど、欲望は貯金の額によって変わる。すでに獲得したものには欲望はわかないから、10万円貯めた人は10万円以内で買えるものにもう興味はなくなる。今度は50万円のものを欲望する。

これは、モノについても同じ。ブルデューによると、ステーキは労働者階級のごちそうだけど、エスニック料理は知識階級の趣味だとか。文化の蓄積が多少ある人は未知のものを「面白い」と感じるけど、豊かでない人は、わかりやすい価値にこだわる。

そういえば、AKB48の女の子たちは「その辺にいるちょっとカワイイ女の子」という誰にでも分かるコンセプト。つまり、文化の貯金が少ない人でも分かる複雑性ゼロの男の子文化。味だったら、赤ん坊でもわかる甘さというか。そのシンプルさは愛すべきかもしれないけど、ちょっと斜に構えるくらいの余裕はほしいな。

この構造はポルノの貧しさと同じだと思う。ポルノは誰にでもわかる欲望を具現化している。だから、なくなることは絶対にありません。でも、それが「素晴らしいか?」と考えると、ちょっとね。たとえ好きでも、その趣味はプライベートにとどめておきたいし、そもそもそこで行われることは呆れるほど画一的。「表現の自由」としては尊重してもいいけど、それをタテに「ポルノこそ素晴らしい」と居直られるとちょっと引く。

もちろん人間はそもそも愚かなもの。立派な紳士がポルノ大好きなんて嗜癖があっても許されます。でも、それはこっそりやるからユーモアがある。茶目っ気で通る。でも、AKB48みたいにおおっぴらになるとグロテスク。観客は若者だから仕方ない。若者は昔から愚かと決まったもので、実際愚かなことをやっても良い時期なのだから。でも、それを操って一大産業に仕立てる大人はまともじゃないよね。

貧困ビジネスといって、貧しい人たちから金を巻き上げるあくどい商売があるようだけど、AKB48のprojectも「文化貧乏」の人たちからお金を巻き上げるシステムになっている。しかも、それがTVなどで活躍した人たちが堂々とやって、組織している人たちは「文化人」とか「クリエーター」とか称される。いつから「クリエーター」って「オレオレ詐欺」の親類になったのでしょうね? 

愚かな若者たちには罪がないし、ほほえましく思う。でも、彼らに「けなげさ」が感じられないのは、その構造に少しも反省が及ばないため。だから何度でもだまされる。「息子からの電話」にだまされる高齢者と変わらない。それどころか、周囲が「やめておきなさい」と言っても、「自分の意志でやっているのに、なぜ文句を付けるんだ」と頑固になる。そうか、高齢社会とは物理的に高齢者が増えるだけでじゃないんですね。精神的にも高齢者同様だまされやすい人が増えるビジネスが流行する時代なのですね。危ない危ない。

こういう流れに逆らうかもしれないけど、ボカボはまっとうにやりたいと思っています。少なくとも、愚かさを利用しない。毎回新しい世界が開ける。新しい認識が増える。それを蓄積すると、世界の見え方が違ってくる。自分の主張したいことも分かってくる。そういう循環を発見するのが目的。毎年やっている「法科大学院 小論文夏のセミナー」「難関大 小論文夏のプチゼミ」もそれがモットー。そういう瞬間が成り立つことは、私にとっても救いの一つです。インドネシアの人たちが「豊かさ」を求めて、現在の「貧しさ」に耐えつつ努力する姿が美しいように……もうすぐ皆様に会えることを楽しみにしています。

7/5

フットボール的グローバリズム

またまた三日坊主の更新が遅れているけど、理由は主に二つ。原稿とサッカーです。今年は、最低、後二冊は出さねばならないのに加えて、ワールド・カップがありましたからね。日本の活躍/敗退については、いろいろ他の人が書いているので割愛。私も「よくやった」という感想と、「これじゃまだだめかな」という印象の間でうろうろ。専門家でもない者が書いても意味ないだろう。次の監督が考えることで、私が考えても仕方ない。

でも、サッカーを見ていて面白かったのは、局面がバタバタと変わることです。手数と時間をかけて相手陣地まで攻め込み、あわやシュートという攻めの局面から、相手にボールを取られて、ドリブルで突破され、あれっと思う間に点を取られる。その攻防がめまぐるしい。カウンターって言うのか、ほんの数秒の間に局面ががらっと変わってしまう。それに合わせて、プレイヤーもどこに位置して何をするか、刻々と行動を変えねばならない。これは今の世界の状況とぴったり重なって見えます。

たとえば、ヨーロッパの経済危機。EUとして、政治経済ともに地域を拡大して「イケイケドンドン」と攻めの姿勢でした。それを評価されてか、発足の時は100円を割っていたユーロが140円まで駆け上がった。最近まで、ニュースではユーロ高なので、ニューヨークではヨーロッパからの観光客が増えた、なんて言っていたんですよ。それが、ギリシアの財政危機から始まって、140円超から100円近辺にまであっという間に大暴落。しかも、ギリシアの次はポルトガル、スペインも財政危機に。ついにイタリアだとか、フランスだとか囁かれる、おお。今回ワールド・カップで調子が良くなかった国ばかりじゃないか…結束が裏目に出て、地域ごと沈みそうになっている。このスピード感!

こうなったのは、もちろん巨額にふくれあがったマネーが逃れどころを求めて、サッカー・ボールのように世界をさまよっているからです。いろいろな金融工学が工夫されているから、不況でも自分の所だけは利益を出せる。どこかに標的を定めて、一斉に資金引き上げなどをすれば危機が起こる。それをネタにして、また儲ける。そういう仕組みになっているのだね。だから、ガラガラと変化する。日本だって、いつ標的になるかわからない。

でも、これは金融に限らない。電脳世界にしても、つい最近までMicro Softが支配していたのがウソのように凋落し、Googleに変わり、またiPadだとかiPhoneだとかAppleが話題の中心になっている。ずっとMac Userだった者として隔世の感。周囲では、本をPDF化してiPadに入れようとして、スキャナーが大活躍。アマゾンではスキャナーと紙の裁断機がセットで売られているというシュールな展開になっているらしい。ロートレアモンじゃないけれど「解剖台の上のミシンとコーモリ傘の出会い」に近くないか?

この傾向は情報の世界でも同じ。とくに、政治なんてひどいものだね。首相が替わると、早速支持率が上がる。ところが、一ヶ月もするとまた下がる。メディアは政権を批判しまくる。言葉が軽いとか、約束が違うとか。ワアワア騒ぐ。そのうちに、選挙がやってきて「躍進」だ「敗退」だと論評がうるさい。そのうち、また「新政権への期待」とか書いて、「約束違反」だとか、「この国の病理」とか始まるのだろう。この見え透いたルーティンについて、恥ずかしいと思わないというのはすごい。メディアは、ほとんど風評を積極的に作り出す機関となっている。でも、それがまた利益を生み出す構造になっているのだね。

こうして考えると、グローバリズムが引き起こした結果は、「世界のフットボール化」という気がしますね。マネーや風評が点々と転がる中、いろいろな国・機関・会社・メディアがそれを追っかけて群がって右往左往。一時期、覇権を取った者も安心してはいられない。あっという間に、他のプレイヤーに追いつかれ、逆転され、どん底に落とされる。それをTVの前でキャーとかワーとか言いながら見ていられればいいけど、どこかの場面では自分もプレイヤーの一部なのです。たまったものじゃないよね。

それを考えれば、岡田監督がメディアに対して仏頂面を貫くのもよく分かる。無責任なメディア=風評に左右されず、自分の判断を通すのは大変だ。かつて彼は「いろいろ言われるけど、一番考えているのは自分だと思う」と言っていました。至言です。評価に惑わされない。逆境を黙って耐える。その代わり、評判が良くなっても浮かれない。やるべきことを人が評価しなくてもやる。こういう徳目は、前はほんの一部の人が持っていれば良いはずの、特別な資質だった。でも、今は普通の人もこれを実行しないと生き残れない。生き残っていれば、そのうち状況が変わってくる。ウケに入る。でも、そのときに浮かれない。次の準備をする…

だからでしょうね。今回のワールド・カップでは「よい準備をする」という言葉が目立ちました。本田も遠藤も使っていた。これもいい言葉だと思います。勝負は最終的には時の運。しかし、それだけに結果を任せることはしない。人間の力でできることは最大限やっておく。最大限どころか限度を超えて準備する。その結果については甘受する。個人の責任とは、そういう意味でしょう。その姿を見せられただけでも、ワールド・カップを見た意味はあったような気がします。

ただ、この状況は全てにあてはまる。ロースクールでもMBAでも公務員試験でも大学受験でも、あるいは私のように文章を書くのでもみな同じ。刻々変わる外部の状況の中で、どのように「良い準備」ができるか? お前は、本当に「一番考えているのは自分だ」と言えるか? 全員が問われているのでしょうね。





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