2010年9月

9/24

公共の哲学を読む」始まりました

日曜日から、「『公共の哲学』を読む キムリッカ」の講座が始まりました。有名な『現代政治理論』を読みつつ、1970年代以降の政治の規範理論をサーベイしていくという講座です。サンデルの「ハーバート白熱授業」の影響なのかどうか、けっこう出席者が多くなりました。「日本人の知的劣化」などとマスコミは言うけど、とんでもない。私が出席者に感じたのは、旺盛な知的好奇心。こういう人たちがいるなら、日本社会はそう暗くはないと思うのです。

第一回は「第二章 功利主義」。日本には比較的馴染みが薄い概念ですが、英米では主流の考えをどう理解するか、「援助交際」の話から「臓器移植」、さらには「クジラ問題」まで、多彩な時事問題を材料に、一問一答スタイルで解明していきました。出席者の発言も活発で、これがどう発展していくか楽しみです。

テーマ「公共の哲学」とは、他人と一緒にどう生きていくか、その場合、どういう風にするのが良いのか、を考えていく学問だと私は思っています。A.カミュは『シジフォスの神話』で、「真に考えるに値する問題は自殺。つまり、人生が生きるに値するか?ということである」と書きました。私は彼の意見に同意しますが、その解決の方向はかなり違う。

人生が生きるに値するかどうかは、他人からの評価による。他人から評価されない人は、自分が生きる価値がないと思いこむ。評価されれば、自分に価値があると思う。だから、他者とどう交際していくか、その関係で何を実現していけるのか、何をあきらめるべきか、それが明らかになれば、生きていくことが出来ると思うのです。

今までの哲学は、A.カミュの主張も含めて「人間の自由」をもとに作られてきました。個人の自由の範囲を拡大し、その限界を極めようとしました。ボカボの長谷眞砂子の意見によれば、その芸術的表現が、フランス革命前夜にある。とくに、マルキ・ド・サドの小説だそうです。

サドって読んだことありますか? 『美徳の不幸』などでは、貞女ジュスティーヌがさんざん辱められ、最後には雷に打たれて死んでしまう。表面上の主人公はジュスティーヌで、道徳的な言辞はたくさん口にするが、キャラとしてはまったく魅力がない。魅力があるのは、むしろ彼女を痛めつける「悪人」どもの方なのです。

自由を求めると、その非公然領域として「人を痛めつけ、傷つけ、殺す快楽」まで呼び出してしまう。近代人は、自由を目標とする中で、こういう抗争の種を欲望として構成することになったのです。自由への希求という信仰が、快楽殺人という悪霊までも呼び出したというか。もちろん、これは、まだ社会の外に利用していない「外部」が大量に存在したからです。だから、それを領有し、思うさま自己の快楽を展開するという幻想も成り立ち、欲望としてもてあそぶことも出来た。

でも、現在は「自由の拡大」はメインのテーマではありません。なぜなら、社会の外がもう存在しないからです。自然だって「環境問題」と言われるように、人間が注意して利用しなくてはもろくも崩れてしまう存在。いわば、自然は社会の内部に含まれてしまったのです。だから、自然を消尽する行為も魅力はなくなった。ありうる犯罪や事故のレベルに落ちてしまったのです。

だから、こういう状況では、解き放った自由をどういう風にコントロールしていくか、が問題になります。近代化の果てに「自由」は一応手に入れたのだから、手放したくない。しかし、それをただ拡大させていくと、自己と周囲が破滅する。自由と生存を何とか調整しなければならない。そのためにも、「正義」とか「公正」とかいう基準が必要になる。「公共の哲学」が必要とされているのは、そういう理路じゃないかな、と長谷は言うのです。 

なるほどね、と思いました。我々の欲望が実現できるスペースはもはや外部になく、むしろそれが将来的に世界に与えるインパクトを計算に入れて、自己の欲望を制御しなければならない。現代が「自己再帰的」と言われるのは、そういう意味かも知れませんね。あれ、もしかしたら「草食系男子」の増加と「公共の哲学」への関心は、相関しているのかな...

次回は、10/10。『現代政治理論』第三章「リベラルな平等」です。一人一人の公正な取り分とは何か。キムリッカの整理が冴え渡ります。一回ごとの参加も歓迎ですので、ぜひお出でください。知的刺激はばっちり受けられると思いますよ。

9/14

寝た戸籍を起こすな!

例の行方不明の高齢者は、戸籍上250万人もいたと、新聞紙上にありました。スゴイ数だね。でも、昨日、大阪市役所の方と話していたら、あれは、戦時中に空襲などで一家全滅した人たちが多いのではないか、と言われました。当然、死亡届を出す人が誰もいなくなる。だから、戸籍もそのまま。別に行政のミスとしてあげつらうものではない、と言うのです。

それに輪をかけたのが、それまで手で行っていた戸籍の記入がコンピュータになったこと。ところが初期は入力がバラバラ。「田中」と書くのに「タナカ」と打ったら出ないので、「デンチュウ」なんて入力した場合もあったらしい。だから「タナカ」で検索かけても出ない、などなど。

なるほど。現場の人に聞くといろいろ事情があることがわかる。目から鱗です。たしかに、ほとんどの人は忘れているけど、ほんの数十年前に日本は大変動を経験している。そこで記録もメチャクチャになった。今と同じように、記録が粛々と付けられているなんて平和な時代ではない。

そういう事情を、我々は少しずつ忘れた。忘れても今のところ差し支えないと判断したからです。歴史は忘れられていく。人間が死ぬ限り、これはどうしようもない。その中で、「意味あり」と後世から思われたことだけが残っていく。思い出す価値のあることだけが残っていくのです。

逆に言えば、思い出さなくていいものは、消えていく。「消えた高齢者」とは、そういう事態なのです。それを問題だと思うことは、問題だとする我々からの視線の作用に過ぎない。むしろ、「そのことを、なぜ我々はわざわざ思い出すか」の方が余程問題なのです。

そのことで言えば、殺人事件の時効がなくなるのも同じ現象かも知れない。殺人が多かったときは、それは「忘れる」以外に未来につながる心理的機制はなかった。同じような事件は次々起こるから、忘れるのが一番。でも、殺人が稀になると、そもそも覚えている材料が減るせいか、「いつまでも忘れない」などと、ことさらに大衆の記憶に刻みつけようとする。

これは、おそらく我々の記憶容量に限りがあるためでしょう。事件がいっぱいある場合は、忘れられる比率が高くなる。事件が少ないときには、少数のことでも覚えている。他の人から見れば、大したことでなくても、当人たちは「大事件だ」と大騒ぎする構造になっているらしい。9.11などもそうだね。1945年6月に6万人もの東京市民が空襲で殺された国民にとっては、忘れるしかなかったような惨状が、たまたまアメリカに起こったというだけで、何回もメディアが取り上げる。人数は圧倒的に少ないのにね。人間とは何と自己中心的で、メディアとは何と不公平な存在なのでしょう。

「消えた高齢者」の話は簡単です。「年金詐欺」の問題。こずるい人が、親が死んだのを隠して、年金制度を利用して、金を細々もらっていた。それだけのケチな犯罪。それを無縁社会の闇だの何だの、妙な方向で騒ぎ立てるから話がずれてくる。昔は、皆が助け合ったけど、今は誰も助けない。現代人は孤独だーっ。でも、ホントにそうかなー? 昔だって、冷たい家族・親類はいたし、村八分という地域からの孤立もあったし、浮浪児なんて見捨てられた子供も多かった。

こういう感じが何度言っても伝わらないのはなぜか? ホントに不思議です。記録なんかいくらあっても、記憶の劣化は防げないのかもしれない。人は、自分が理解したくないことには耳をふさぐ。だから、事態を誤解する。国民的認知症? それとも「メディア認知症」? まあ、ニュースネタがないから、些末なことまで取り上げなきゃならない事情には同情するけど。こういうお祭り騒ぎのコストもバカにならない。報道のおかげで、行政も対応しなければならなくなった。120歳以上の戸籍を消すんだそうです。

でも、忘れられるものは、忘れられる理由がある。そっとしておけばいいのです。250万件なんて今更修正してもどうしようもない。寝た戸籍を起こすな!それに、戸籍を消すのは誰がするのか。もしやるのなら、その火付け役となったマスメディアが、勤労奉仕でボランティアでもやりますか?  戸籍抹消24時間TVなんちゃってね。でも、きっと、イベントの後でまた膨大なミスが発見されるだろう。そしたら、また修正ボランティアですか?

さて、こういう異論は、もちろん功利主義の主張する「結果主義」から発想できます。今度の「公共の哲学を読む」の威力は社会問題を判断することでも発揮されます。9/19の午後はもうすぐ。ご出席お待ちしています。


9/11

電波が飛び込んでくる社会!

バイクに乗らなくなってから、ずいぶん長くなってしまった。前は、いろいろなところにほとんどバイクで行っていた。一週に一回、横浜に仕事があったのだが、練馬から横浜まで一時間バイクに乗っていった。もちろん大宮に仕事があるときもバイク。町田のときもバイク。とにかく乗っていることが嬉しい、という時期はあるものである。

バイクの快感とは何か? 「風を切る」とかよく言われるが、簡単に言うと空間と身体が直に触れあうと同時に、先に進んでいるというドライヴ感・スピード感があることに尽きると思う。空間という視覚に関する要素に、爆音という聴覚と空気感という触覚が結びつく共通感覚。もちろん、そこに複雑な機械をコントロールしている主体意識がある。感覚を刺激する乗り物としては、一番洗練されていると私は思うのだが…。

そういえば、バイクで死に損なったこともあった。前の車が急停車して、必死の思いでブレーキをかけた。1m手前で止まった。助かったと思って振り返ったら、大型トラックが迫っている。一瞬「死ぬ」と思ったが、トラックはハンドルを大きく切って、反対車線に飛び出し、ガードレールに激突! とっさの判断だったらしい。幸いにして、反対車線に車がいなかった。トラックがそのまま進んだら、私は確実に前の車とトラックの間でひしゃげた肉塊と化していただろう。

私は、まるで夢の中のように、その光景をぼんやり眺めていた。私の頭の中に「もう一つの世界」という言葉が浮かんだ。今、私の死んだ世界と私の生き残った世界が分かれた、と。私は「私が生きた世界」を生き続け、そうでなかった世界が私から分離し、向こうに行った。そのとき、私は哲学で言う「可能世界」を実感したのだと思う。

…まあ、個人的思い出かもしれないけどね。でも、バイクは「個人」を実感させる道具でもある。バイクに乗る人は、だいたいどこかで生と死の狭間をすり抜ける経験をしているからね。否応なく「自分の生命」などを考えてしまうのだ。思索的な乗り物と言ってもよい。

そのバイクが売れなくなっているという。一時期の1/3程度だとか。原因は、バイクのイメージが「暴走族」などビンボーなイメージになったからだそうだ。世の中のヴァーチャル信仰がそこまで来たかっていう感じです。実際に乗らないで、世の中に流通している階級・階層イメージで決めつける。世の中が情報を取り入れるだけになった証拠だと思う。

こういう傾向は、外国に行かなくなった青年たちにも通じるかもしれない。外国に行けば、いろいろ体験が出来るのだけど、TVなどで情報が入っているので、知ったつもりになっている。それより大切なのが、キャリア形成という雰囲気になっている。3年生の秋には就職活動が始まるのだから、留学・旅行の暇がないらしい。1,2年で外国語能力を上げても、それを実地に使う暇もない。でも、感覚も開発しないままに、まだ存在しない未来を賭けるヴァーチャルな人生設計に走るのは、「ビンボーくさい」と「情報的」に判断する独断と同じだ。自分の直観より、こっちが有利だよ、という情報で決める。こういう生存戦略は、けっこう危ないと思うけどね。

選択を迫られたとき、決めるのは情報ではなく直観だ。「何でこっちがいいんだか、分からないけどこっちだ」と確信する。「わからない」という状況は、社会に通用する言葉で正当化できないということ。逆に言えば、それができないということは、社会に通用するステレオタイプの言葉でしか自分を決められないという状態。「理屈はわからないけど、こっちだ」と思える範囲がないということは、自分が生きるという独自の意味を持たないということだ。世の中に通用する意味でなければ許されなくなっているのなら、自分でない誰かが生きていても一緒だろう。

小論文について、世の中に通用する言葉を適当に使って自分の意見を正当化することのように思われているけど、そうではない。自分が「こっちだ」と直観する何かを探して、言葉の森の中をさまようことだ(かっこよく言えば、だけど)。そこで、ぴったりの言葉を探せれば成功。そうでなければ「嫌な感じ」がいつまでもつきまとう。そのズレを探し、解消する方策を探すことが、文章を書くプロセスだと思う。

「オートバイはビンボーくさい」と決めつける人々は、自分の言葉さえどこかで聞いた言葉のオウム返しで良いと思っている人だ。流通する言説や意味に惑わされ、こづかれ、そこを食い破れずに、他人の言葉を次々につないで、一生を終わる。はっきり言って、つまらん人生だね。でも、大多数の人は、自分の考えは自分が作ったと思いこんでいる。その考えが本当はどこかからの引用に過ぎないのに…。そういえば、昔、「頭の中に電波が飛んでくる」という統合失調患者がいたらしいが、自分の考えや言葉が世の中に伝わる電波の反映ではないか、と疑う人間の方がまだまともかも知れないね。

さて、9/19 には「公共の哲学を読む」の第一回が始まります。自分の考えや言葉がいかに「引用の織物」にすぎないか、は強靱な思想とすりあわせてみなければわからない。第一回は「功利主義」。キムリッカの『現代政治理論』をテキストに、「ハーバード白熱授業」より熱い議論が展開することと思います。ぜひ来てみてください。

9/6

高齢者はひっそりと消えたい?

NHKで「消えた高齢者―無縁社会の闇」という番組をやっていた。全国で350人の100歳以上の高齢者の所在が不明だそうだ。それを孤立した人々が増える「無縁社会」だと論評していた。何を考えているのか、大げさな。国民なんて1億2000万人もいるのだから、350件ぐらい漏れが出てくるのは想定範囲内じゃないか。

そもそも記録が完璧だという思いこみは、デジタル時代になってから生じたものだ。その前は手で記入していたのだから、記入漏れがあって当たり前。手作業からデジタルに変わって、そこでたまたま発覚したことだということを忘れてはならない。今の基準を当てはめて、昔のことを判断してはいけないと思う。

昔だって「神隠し」はけっこうあったし、「行き倒れ」などもざらにあった。そういうのは「適当」に処理されていたのだ。名前が分からない「行き倒れ」が一人出れば、行方不明になった人一人の所在が分からなくなるのは当然だし、焼かれてしまえば顔も分からなくなる。記録なんて、そもそもいい加減なものなのだし、いい加減ぐらいでちょうど良い。

「あのおじいさん、どこ行っちゃったんでしょうね…」と噂されるぐらいで別に不自由はないし、100歳を超えれば死んでいる可能性が高い。死んでいるか生きているか調査したところで、もう税金も取れないのだから、官の方では探すメリットはない。死亡が確認できれば年金を払わなくて済むが、そんな小額の金を節約するために、わざわざ人手を使って調査するとしたら、そのコストの方が多い。この頃、コストを考えない観念的言説が多すぎるよ。

だいたい「消えた高齢者」とは言っても、住民台帳に残っているだけで、年金が実際に支払われていた例はそれほど多くないはず。年金が支払われていた「消えた高齢者」が何人いるのか、そのデータもぜひ公開してもらいたいものだね。

その意味で、むしろ、現在くらい、行政に個人情報が把握されて「闇」がなくなっている時代はない。「行政への不信が増大している」などという批難もあるが、行政が完璧に個人の情報を把握していたら、かえって怖いと思う。今ぐらいの「杜撰さ」がほどよいし、「無縁社会の闇」などと嘆く問題でもない。むしろ「行政の情報が完璧」になって、闇がなくなることこそ警戒した方がよい。「闇」とは自由の別名でもあるのだから。

そういえば、番組の中では、対策として高齢者にキーホルダーを与えて、そのなかに住所・氏名・連絡先と同時に「番号」が記入されていると言われていた。ほらね。やっぱり「消えた高齢者」を嘆く輩は、「国民総背番号制度」推進の影武者じゃないの。そんなに、高齢者を管理したいのかな? 行方不明になった本人は忘れられたいと思っているかもしれないのに。社会から承認されたいと思う人が多い中、いろいろな事情でそう思わない人もいるのでは?

そういえば、大学時代の友人は、「今の私の望みは、自分が生きていた証拠をこの世からすっかりなくしてしまうことだ」と語っていた。多少誇張があるにせよ、それもひとつの見解だ。ネコは死ぬときに、飼われていた家族の前から姿を消すという。死ぬときぐらい、行政だとか家族だとか社会だとか余計なものとは無関係に一人で死にたい。そういう自然な願いも取り上げようとするとは、嫌な時代になったものだ。

「死の論理」と「生の論理」は違う。生きるためには世の承認が必要だけど、それを清算するのが「死の論理」だ。消えるのもひとつの方法かもしれない。そのことを想像しない社会は、優しさを押しつけて実は残酷な社会だ。フーコーの言う「バイオポリティックス」が大衆化した状況だろう。

もう一つ。自殺する高齢者は、家族と一緒に暮らしている人が多いという。きっと、財産分与やその他いろいろ心労が多いのだと思う。家族がいることは救いだけではなく、トラブルの種でもある。その構造をもっと意識すべきだと思うのだが、「家族、家族」と期待しすぎだ。家族はちょっと離れて暮らし、ときどき心配するぐらいの距離がちょうどよいと思う。

これに限らないけど、最近のメディアの論調は一貫性に欠ける。一方で無駄をなくせと言いながら、コストを無視して、次から次へと政府に要求する。大きな方向性を出せと言いながら、細かな法令違反をあげつらう。しかも、こういう八つ当たり的傾向は政府に対するだけではない。企業、教育、公共機関、個人などあらゆるところがいつ攻撃対象になるか分からない。末端の人にまでいちいち「説明責任」を要求し、言いよどむと追求・攻撃する。

その網の目がしだいに細かくなり、普通にやっていても、いつどこから矢が飛んでくるかわからない。飛んできた矢はふり払わねばならないし、言いがかりは不当だと説明する能力を一番の人も持たねばならない。「メディア社会」とよく言われるけれど、メディアが発達したことだけを意味するわけではない。むしろ、個人が領域を拡げたメディアと対抗して、自分の身を守る力を持たねばならないことも意味するのです。

ボカボでは、「公共の哲学を読む」という講座を始めます。これは、「正しい行為の要件とは何か」についての理論を確認し、説明能力を増すための講座です。ロースクールなどの小論文試験の頻出テーマでもありますが、意欲ある社会人の方にもお勧めします。10月10日から毎日曜日の午後に三時間。ただし、9月19日(日)にイントロダクションとして一回行います。これまで、「法科大学院小論文 夏のセミナー」などで折に触れて説明してきた「功利主義」「リベラリズム」「リバタリアニズム」「多文化主義」などの原理を一挙解明するとともに、具体的社会問題を取り上げて議論します。ボカボのポリシーを鮮明にしたボカボらしい講座といえるでしょう。乞うご期待!




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