2010年11月

11/29

●なぞなぞとビジネス思考

昨日、友人たちとの飲み会の帰りに友人が子供連れで事務所に寄ってくれた。まだ7歳。とっても明るい利発な女の子で、名前は「ハル」と呼んでくれ、と言う。周囲は皆50過ぎのくたびれきった男たちなのに、臆する様子もなく、なぞなぞをかけまくって生き生きと飛び回る。子供は元気だ。「一生懸命やってもくたびれもうけなスポーツは?」「マラソン」てな具合である。カワイイ!

でも、そのなぞなぞが、私にはなかなか解けない。苦戦していると、父親のミツから「頭コチコチだねー」と笑われてしまった。たしかにそうかもしれない。子育てと無縁で、「論文の書き方」などで暮らしているうちに、語呂合わせとかトンチの才がすり減ったとしたら、正直悔しい。でも、たぶん、そうなんだろうな。

だが、頭コチコチになりかかっているのは、私に限らない。エラソーなことを言っている人の大部分は、既成の概念に縛られて、発想が飛ばない。それどころか、平気で、文脈や状況からはずれたアイディアにしがみつく。

前にも触れた『デフレの正体』藻谷(もたに)浩介著について、高名なプロガー池田信夫がコメントしていた。「最大の問題は高齢化である――身も蓋もなく要約するとこういう内容で、間違ってはいないがオンリーワンではない」と評している。書いていることに新味はない、というのだ。

うーむ、「最大の問題は高齢化」か…藻谷の本は「生産年齢人口の減少」がデフレの原因だと言っている。「生産年齢人口の減少」がその世代の人が65歳以上になってしまうことから来るのだから、高齢化が原因と言えないでもないのだが、理解としてはかなりずれている。

それが明らかになるのは、彼が藻谷に反対して、「高齢化はデフレの原因ではない」と主張しているところだ。各国の「高齢化率」を比較したグラフを引用して、池田は次のように言う

「上の図を見れば明らかなように、日本の高齢化率が世界最高になったのはここ数年で、最近20年をみると主要国の平均程度である。合計特殊出生率(2004)をみても、日本の1.29に対して、韓国1.16、台湾1.18、シンガポール1.24、香港0.93と、少子化はアジア諸国のほうが急速に進んでいるが、こうした国の成長率が落ちたという話は聞かない」

でも、この説明では「高齢化はデフレの原因ではない」を証明していない。そもそも、20年前は90年代初頭で、まだ日本はバブル=好景気の真っ最中だった。それからの「失われた10年」についても、実は所得も雇用も増えている、と藻谷は言っている。その意味で、池田の持ち出した「日本の高齢化率は主要国の平均程度なのに、デフレになっている」というロジックは、むしろ藻谷の主張を裏書きする方向になっている。 

だが、もっと重大なのは、池田が『デフレの正体』の論理構造を理解していないと思われることだ。藻谷は、失業率・合計特殊出生率などの数値に注目しても何も分からない。むしろ数値にだまされてしまう。重要なのは「率」ではなく絶対数なのだ、と看破している。人口が多かった一時期の世代が、人生の節目ごとに消費需要を押し上げるのが所謂「景気循環」の真相であって、その層がお金を使う生産年齢の時期を過ぎて、将来の医療費のために金を使わないという状況からデフレになったのだ、と人口学的な仮説を立てている。

この仮説を批判するのはよい。評価はいろいろあるから、間違いだと言ってももちろん構わない。しかし、もし、批判するなら、その人口学的発想、つまり「絶対数への注目」のところに焦点を当てるべきだ。それなのに、池田は、それをわざわざスルーして「デフレは高齢化が原因だと言っている」と経済学の手垢の付いた決まり文句に翻訳する。焦点がずれているのだ。

実際、藻谷は、本の前半で「合計特殊出生率がいくら高くったって母親の数という絶対数が少なければ、少子化は止まらない」と「率」に注目する通念を何度も戒めている。それなのに、池田はそれに反論しようと、また「高齢化率」や「合計特殊出生率」を持ち出す。どうしても、絶対数という発想に手が届かず、「率」に呪縛されて議論する様子は、まるでイタチゴッコだ。それともモグラ叩きかな? 叩いても叩いても、批判されている当の発想が姿を現す仕組みになっている。

つまり「新味がない」のは、藻谷の本ではなくて、その主張を理解しようとしない池田の頭の中なのだ。高齢化と言えば「高齢化率」と変換し、少子化と言えば、「合計特殊出生率」と自動的に変換。頭の悪い漢字変換ソフトみたい。これでは、読んでも読んでも、自分の頭の中を覗いているばっかりで、新しい発見はないだろう。

他人の主張を、自分が批判を加えやすいようにわざとずらして理解して、そのイメージを攻撃する。こういうのをストローマン(かかし)論法を言う。もし、これが自分の習性になってしまったら、相当ヤバイ。何を見ても同じ風景にしか見えず、他人がバカに見えて、実は自分がバカに陥る。これでは、頭脳のデフレスパイラルだ。

もしかしたら、ビジネスの思考法にはまると、こういう「頭コチコチ」になってしまうのだろうか? 「デフレの正体」は、実はビジネス発想にとらわれていることだったりして……ハルちゃんのなぞなぞにでも挑戦して、頭の垢を落としてリフレッシュすることをお勧めしたいな。でも、こんなことにこだわっている私の方が、頭コチコチだったりして……自戒しなくっちゃ。

そういえば、硬直した精神については、小田嶋隆がコラムを書いていました。柳田前法相を追求するマスコミや野党のかっこわるさについては「なんだかなー」と思っていたけど、見事に言い当てられた感じです。

ボカボ・スタッフの和田くんは次のように書いています。

「私も基本的にはこの記事に同意見です。

法務大臣の発言を批判する法曹関係者のブログなどを見ましたが,
ミジメなマジメにだけはなりたくないと思いました。
自分の目標を実現するために勤勉に努力することと,
周囲の矛盾に疑問を持つことはまったく違う次元の問題であるにもかかわらず,
同じように扱う風潮というのは気持ちの悪いものですね。

ジョークだけでは生きていけないですが,
ジョークのない人生はつまらないですね。


たしかに、このジョークを許さない思考が一番の「デフレの正体」だったりして。

さて、もうすぐ12月。10-11月の「法科大学院小論文Start & Follow Up!」も「公共の哲学を読む―キムリッカ」も一段落しました。ボカボのReal Schoolは「法科大学院小論文・志望理由書 年末・新春」と年末から始まります。それが終わったら、1/15から「法科大学院 適性試験Start Up!」。2月(詳細日程は12月中旬発表)には、「公共の哲学を読む―レイチェルズ」もあります。どの講座も、通念から脱却して、新しい発想につなげます。とくに2月の講座は脳を刺激する快感の講座かも。お楽しみに!  「来年のことを言うと鬼が笑う」らしいけど、ボカボ、とくにWebには休みはありませんよ。

11/25

●追悼のパワー

雑誌「環」Vol.43の「竹内敏晴さんと私」という特集に,追悼文を書いたところ、何人か「良い文章だった」と言ってくださる方がいたので,「三日坊主通信」に再録します。「環」を読む人は多くないでしょうからね。

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言葉と行動が一致する方法

竹内敏晴は私の「師匠」だった。もっとも何を教えてくれたのか、いまだに判然としない。彼も私のことを「弟子」と呼ぶのは、きっと躊躇するだろう。もしかすると、「あんな奴、弟子じゃない」と否定されるかもしれない。彼の元にいた幾多の人々に対して、彼が言い放ったと同じように。もっとも、竹内とのつきあいは、直接にその下で働いたとしても、多かれ少なかれそういう感じにならざるを得ない。

最初に見たときは、今でも覚えている。その頃、私のいた大学の研究室では、彼の著作がブームで、友人に彼の演劇研究所を見学に行こうと誘われたのだ。彼は、卒業公演のための稽古を付けていた。たしか、別役実の『赤い鳥のいる風景』。弟が姉に答えて「なぜ学校に行けないか」を説明する場面。姉役の詰問に対して、若い役者が台詞を言う。演技の巧拙は分からないが、必死にエネルギーを振り絞る姿が、好ましく思えた。

それを竹内は「はい、そこまで」とあっさり打ち切り、「今のじゃダメだ」とコメントする。よくある劇団のダメ出し風景。ただ驚嘆したのは、説明をしながら、彼が手本としてやってみせたほんの数秒の演技だった。言葉と寸分違わぬ行動、言葉通りの現実が出現する。椅子に座る動作、なぜ体がねじれるか、そのとき顔はどこを見るか、声はどうなるか、説明と行動がぴったりと符合するのに目を見張った。

私は、それまで人間の言葉と行動が一致する状態を見たことがなかった。人間解放や制度の解体を勇ましく主張する言説はたくさんあったが、どれも具体的道筋には欠けていた。学識豊か・論理的であるほど、どこか存在や行動と矛盾して説得力を失う。それなのに、たとえ芝居とはいえ、言葉がそのまま行動となる方法がここにある。その瞬間に、私は「ここで学ぼう」と思ったのである。

もちろん時代の影響も大きい。1970年代半ば、政治的行動は下火だったが、生活や意識の混乱は続いていた。制度や規律を乗り越える試みがあったが、どれも具体性に欠ける。「この世界を超えよう」という気分だけは横溢しているが、「リラックスせよ」とか「Yesと言え」以外の提案はない。しかし、その不備を批判しても、どうすればいいのか、自分では思いつかない。あちこち火を付け回って焼け野原になったような気分だった。

竹内のやり方は、そんな自分を根底から復興させるための方法だった。たとえば、彼自身もよく言及した「話しかけのレッスン」では、後ろを向いた人に対して声をかける。もちろん、私は「声が届かない」と酷評された。竹内にさんざん言われて、ヘトヘトになって帰宅する。だが、次の日から、声の聞こえ方が変わった。デパートのエレベーターガールの声の頼りなさ。目の前にいる人の声の遠さ。自分の耳がおかしくなったのかと思うほどだった。

あるいは、「トラの飛び込み」。マットの向こうにハンカチが置かれ、そこに向かって飛び込み、一回転する。所謂「飛び込み前転」なのだが、竹内はまずトラの吠え声を出させる。「まだダメだ。もっと…」必死で吠えている内に「行け」と背中を押される。そのまま飛び出す。気がつくと、私はマットを飛び越え、一回転してハンケチを握りしめている。自分が知らない自分の力に気づく。

さらに「出会い」では、部屋の両端から二人が中央に向かって歩いていく。真ん中で出会ったら、何をしても良い。握手しようが抱きつこうが構わないが、言葉だけは使わない。一段落してから、周囲で眺めていた人から感想を言われる。自分の意図と周囲から見えた様子のギャップに驚く。相互性とは何か、他者性とは何か、対話とは何か、を具体的に体験する仕組みになっている。

こんな風に、彼の「レッスン」は即興的に見えるが、周到に計算されたプログラムである。シンプルな設定の中で「今まで気づかなかった自分」に出会う仕組みになっている。参加者に合わせてコメントも感想も変わる。しかし、どんな場合でも、日常生活ではあり得ないレベルに深まる。しかも起こったことは、そのまま自分と世界の確認となる。これが、彼のスタイル(文体)であり、作品であった。

この手つきは「近代」的だった。すべてを疑うことから出発し、自分の感じだけを手がかりにして、普遍的に「使える技法」を鍛え上げる。まるでデカルトの『方法叙説』だ。活躍時期が70年代以降だったから、身体論などポスト・モダン的文脈から評価されたが、彼の方法はむしろ厳格だった。彼の「リラックス」も独特だ。制度や体制に反発して、止めどなく「ゆるさ」強調するのと反対に、余計なことは捨てて一点に集中する。それを支える身体がリラックスという状態なのだと言う。世界を変えるには、どんなにささやかでも、対抗するための方法を立てるべきだ。それが彼から学んだことかもしれない。

結局、私は20代のほぼすべてを彼の元で過ごす羽目になった。弟子としては全く忠実ではなかった。ワガママで迷惑をかけた。もっとも、彼の方も「忠実な弟子」を許さない風だった。つねに探求して、仕事の仕方が変わり、彼自身が変わり、人間関係の布置も変わる。だから、彼に思い入れした人は、だいたいどこかの時点で対立する。それを、彼はあっさりと捨てる。新しい人・ところに行く。そういう意味では、つねに問題を引き起こす波乱の人でもあった。

彼の本名は「米沢敏晴」。これで何度目の改名だか私は知らない。自分が存在しているのだから、名前なぞ何でも良い。人間のネットワークに頼らず、自分の編み出した方法を基準として生きていく。おそらく戦後社会が生み出した「個人」の一典型ではないかと思う。日本が西欧近代への疑念を表明して、ポスト・モダンに乗り換えた時代に、こういう人間が先導したとは皮肉だが、確実な基礎を要求される時代となってみれば、やはり幸運なことだったと思う。

私が「論理」や「議論」を対話として整理し始めたことも、結局、彼に追求されたことが出発点だった。その意味で、彼から何と言われようが、「よき師匠だった」と頭を垂れる他ないのである。

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自分が影響を受けた人のことを書くのは難しい。でも、その人からもらったものに感謝し、次世代に伝える結節点となる。それに関わる使命感が文章を書かせる。そのつながりをありありと感じます。その意味で言えば、言葉とは墓に書くべき必要から始まったのかな、と思えてなりません。「すべての文章は墓碑銘である」。ニーチェなら、きっとこんな箴言を書きそうです。

11/5

イレッサの遺恨

一昨日の新聞に、「イレッサ使用 初期治療でも」という小さな記事が掲載されていた(11月3日朝日新聞38面)。イレッサは有名な抗ガン剤。2002年に末期の肺ガンに使われてて、大きな効果を上げたのだが、「間質性肺炎」を引き起こして、多数の患者が亡くなったと大騒ぎになった。

当時のマスメディアは「医師の認識不足」とか「患者家族の嘆き」だとか、扇情的な見出しを掲げて、当時の薬事行政を批判したのだが、結局、8年たった「現在は、抗がん剤治療に十分な経験のある医師が使うようになり、副作用による死亡は減っている」だとか。しれっと書いているが、結局、新薬の扱いに慣れていなかったから問題が出ただけで、薬自態に問題はなかったわけだ。大騒ぎにした責任をマスメディアはいったい取っているのだろうか?

私は、この顛末を論文に書いて、マスメディアの報道の仕方を1年以上にわたって追った。その結果、最初は扇情的な見出しが並び、「薬害」を認識できなかった医師・病院・厚生労働省などの責任を追及するのだが、だんだんイレッサで寿命が延びたという患者たちの記事が載り、プラス・マイナスの両方を考えねば、などという反省めいた記事が掲載され、やがてひっそりと新聞から消えていくというパターンが分かった。

その後、どうなったのだろう、と思っていたが、この記事で明らかになったわけ。結局、イレッサの有効性が次第に認識され、今や有用な抗ガン剤として使用されているらしいのだ。でも、だとすれば、あの大騒ぎは何だったのか?

新聞が間違ったのは許そう。見込み違いは誰にだってあることだ。だけど、「現在は、抗がん剤治療に十分な経験のある医師が使うようになり、副作用による死亡は減っている」はないだろう。自分達がさんざん間違った報道をまき散らした責任については、謝罪の一言もないのだろうか? あのとき、イレッサを使ったということだけで非難された医師や病院に対して、名誉回復の措置はないのだろうか? 訳も分からず、人を非難し、悪口雑言の限りを尽くしたことに対して責任は取らないのか? 土下座の一つぐらいないのだろうか?

私は、その論文で、医療従事者へのアドバイスとして「とりあえず医療事故が起こったら、ごめんなさいと謝ってしまえ。そのうち、問題はうやむやになるから。それが危機管理の正しい方法だ」と書いた。やや虚無的な主張に聞こえるかも知れないが、実践的にはこれで正しい。

実際、私も翻訳に関わったハーバード大学病院の「もしまずいことになったら」というパンフレットでも、ほぼ同じ事が書かれている。もっとも、私の論文の方が、ハーバード大学病院より数年早いのだけどね。私が発表したときは、現場の医師の先生方から悪評轟々という感じだったけど、ハーバード大学のパンフレットは、いろいろな病院で取り入れようという活発な動きになっている。時代はあっという間に変わるね。

そこにも書かれているが、医療事故の大部分は医者が悪意でしたなんてことは、ほとんどない。むしろ、ちょっとした不注意や予測不可能な出来事だ。「不注意」と言っても、そのほとんどは医師・看護師の責任というよりは、システム・エラーである場合が多い。

それを、マスコミは「誰が悪いのか?」という人間の責任追求型の言いかたで報道する。それが問題の本質を隠し、解決をより面倒なものにするのだ。そのメカニズムが分からないのは、よっぽど頭の程度が低いのだと思う。それとも、頭の良い人がみんなで一緒に行動すると最悪の決断をしてしまうという所謂Group Thinkingの現象なのだろうか?

そういう他責型言説の雄、マスコミが、自分の責任に対しては口をぬぐっている。まったく醜い行動だね。こういう態度は、他者に対して疑惑の目で見る、という一般的態度を醸成し、それを人間関係のデファクト・スタンダードにしてしまう。社会の信頼を損ね、他者への責任追及をあるべきモデルにする。「嫌な世の中になったものだ」と思うが、そういう雰囲気の大きな部分に、マスコミに責任があるというのは否定できない。

せめて、自分が間違ったことについては、率直に反省しないのか? そういう態度が、マスコミに対する信頼も堀崩している、ということがどうして分からないのか? イレッサについても、ぜひ「何で自分達の報道がこれだけ間違ったのか?」という検証記事を掲載して欲しい、と思う。まあ、でも絶対にやらないだろうね。そういうことがあまりに多すぎるから、しらばっくれている方が得だと思っているのだろう。でも、「天網恢々疎にして漏らさず」。私のように、昔のことをちゃんと覚えている人も少なくないのです。

さて、「公共の哲学を読む―キムリッカ」はいよいよ後半戦に突入。11月がコミュニタリアニズムから始まって、シティズンシップ理論・他文化主義・フェミニズムとつながります。ますますexcitingな議論になっていきます。ロースクールなどの議論でも頻出のテーマ。知っていると知らないのとでは大きな違いです。後半からの受講もO.K.です。ぜひふるってご参加ください。




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