2010年12月

12/19

●合格者の声とネットワーク

合格の知らせがいくつか飛び込んできました。率直にうれしい!

たとえば、一昨年の秋から受講していたロースクール志望の社会人のJさん。去年は、残念ながら涙を呑んだけど、そのまま努力を続けた結果、今年は名古屋大学法科大学院合格。

社会人は、受験モードになるのに時間がかかる、だから、じっくりと取り組むべきだ、と私たちはつねづね言っています。だから、一年目でうまくいかなくても心配する必要はない。努力を継続していれば、だいたいその次は受かるから、と言っている。彼も、そのとおりになりました。

最初の年に受からなくても、ガックリしない。ボカボの方法論に疑問を持つのもいけない。これ、傲慢で言っているのではない。ホントです。

よく、結果が出ない方法論はダメだ、というけれど、それを厳格に考えすぎるのは、かえって自分の未来を閉ざす。なぜなら、結果には、長期にわたって出てくるものと短期で表れるものがあるからです。短期で結果を出そうと焦りすぎると、付け焼き刃でいい加減な受験テクニックに走る。

そもそも、いい加減なやり方が「成功体験」になったら悲惨だと思う。苦しくなると、どこかに近道はないか、と探す癖が付くからです。何とか、誤魔化して突破する方法があると思ってしまう。これじゃ、人生うまく行くはずはないよね。

正攻法であればあるほど、スキルを身につけるのには近道はない。その代わり、本物の実力になる。職人だって、技術を身につけるのには何年もかかるはず。文章を書く技術だって、技術である限り、それなりの試行錯誤と熟成の時間が必要なのです。焦ることは禁物です。

「今年の受験も適性試験がうまくいきませんでした。…しかし、もしかしたら、小論文で挽回できる可能性もあると考え、論文を書く練習を積み重ねました」

たまたま、名古屋大学は一次の書類審査がなくて、志願者は全員二次の論文試験に進めるらしい。

「(名古屋大学では)最低基準点さえクリアしていれば論文を書くチャンスを与えられるため、安心して受験準備を進めました。その甲斐あって、本番では実力を十分に発揮できたと思います」

何という余裕と自信! 社会人だから、適性試験の点数が悪いのは半ば当然です。でも、自分は小論文を武器にすることが出来る、と確信しているわけです。これぞ、ボカボの受講生のあるべき姿ですね。

さらに、もう一人紹介しましょう。「30代にして、大学で経営学を学びたい」と志した受講生です。

「通信添削が始まってみると、文章力にはちょっと自信のあった私でしたが、いきなり鼻っ柱をへし折られました。そこそこ書けていたつもりでも実際はぜんぜん書けていなかった。志望校の過去問の傾向に合わせて出題される課題の数々は、私にとって非常に難解で…試験直前の評価などC-という悲惨な内容でした。しかしそのかいあって、本番の試験で出された問題のなんと簡単なことか…。書き始める前にすべての課題文と設問を読み、『いける!』と感じた時の充実感は忘れられません」

合格はもちろん嬉しい。でも、なしとげたことはそれだけではない。毎回、必死になって書いて提出し、でも返還されると評価は低い。その繰り返しです。途中で、めげそうになったこともきっとあると思います。でも、とにかく最後まで完走する。

すると、知らない間に、自分の知的体力は増している。それを確認できた感激がこの文章には溢れている。それは受験のための勉強という功利的な目的を超えている。逆に言えば、どこかで功利を超えた境地に到達したものだけが、合格にも辿り着くという逆説的な仕組みになっているわけ。

彼は、この文章を「合格者の声」に掲載して欲しいと送ってきました。私が嬉しかったのは、彼が「合格者の声」を、「晴れがましい」場と感じてくれていることです。この「合格者の声」には、ヤラセはない。個人特定できる情報などをカットするだけで、受講生たちが書いたものをほとんどそのまま掲載しています。

受講生たちに聞くと、めげそうになったときは「合格者の声」を見て、勇気を得た、と言う人が多い。だから、自分達が合格したときには、そこに載せて「後輩」たちの励みにしたい。そのイメージを励みにして、また頑張る。

その意味で、この「合格者の声」は、少なくとも、同じ志を持つ人の連帯の場になっている。合格した者が、自分達に続く者に対して「大丈夫だよ。僕のようにやれば絶対に上手く行く」と勇気づける。たとえ、一度も会ったことがなくても、その足跡を印すことで、数限りない人の前途を照らす。そのメッセージを受け取った者は、自分達もそういうメッセージを発進できるように頑張る。

こういう循環的なネットワークのことを真の意味で「相互の友愛」と言うのではないか? それが、WEBというネットワークで実現していることは、情報社会がアトム化を促進しているなどという半可通な主張を見事に反証していると思うけどな。こういう場を作れたことは我々の誇りです。

12/13

●読む力!

ロースクールの受験がだいたい終わった。まだ全ての結果が出ているわけではないが、今年も、全体的な成績は良かったと思う。東大ロースクールの結果も出たが、ちゃんとボカボの受講生は合格していた。彼のことだから、おそらく大丈夫だろうと思っていたが、やっぱり発表までは心配していた。

だいたい、社会人が合格するコツは時間をかけることだ。彼も一年以上にわたって、真面目に講座に出てきた。他の人が、途中でめげたりあきらめたりするなかで、寡黙ながらも毎回の課題をちゃんと遅れずに出し、毎回、講義・演習に出席する。早稲田には補欠合格だったらしいが、それでもめげずに努力を続けた。

「ボカボの講座だけを信じて1年間、取り組んできてよかったと思います」

忙しい仕事の中で、よく続けてきたと思う。率直に「おめでとう」と祝福したい。そして、これからも、さらなる努力を払われんことを。その姿勢だけが未来への展望を生み出すと思うから。

これだけ沢山の受験生を見てくると、継続が結果を生み出すことがよく分かる。去年も、二年がかりで黙々と準備してきた社会人が京都大ロースクールに合格した。それに対して、「五回書けば、合格できますか?」とか「何回やれば、合格できる力が付くのですか?」なんて、こちらに保証を求めてくる人はたいてい不合格になる。

なぜ、そうなのか? 保証を求めてくる人は、自分の実感と社会の客観的な評価を比較考量できないからです。だから、他人から与えられたコースをとりあえず通過すれば、「うまい話が待っているはずだ」と信じ込む。自分にどんな能力があるのか、どんな評価をされるのか、まったく自覚できない。だから、形式をまるごと受け入れて、これをやったから大丈夫と自分を納得させる。

逆もある。「自分には能力もスキルもすでにある。ただ、社会がそれを認めてくれていない」という態度。こういう人は最初は「一生懸命やります」と威勢がよい。しかし、しばらくすると「何度書いても、なかなか評価が上がらない。これはおたくのシステム/添削が悪いせいではないか?」と難癖を付ける。そのうちに、課題を出さなくなる。講座に来なくなる。いつの間にか消えてしまう。

どちらもバランスが悪い。生きていくことは、周囲の環境と折り合いを付けることだ。それは言いなりになることではない。生きることが、アクティヴな行為である限り、そんなことはそもそも不可能だ。自分のしたことは、周囲に影響を与え、極端な場合は、汚し/傷つける。その程度がひどければ、当然サンクションを受ける。「そうか、これではいけないのか」と悟って、アクションを変える。それが環境に貢献すれば、賞賛される。でも、合わせすぎて、自分が生きにくくなると困る。そのバランスを見つけるために、また努力を重ねる… この連続の中で自分と環境の自由度が高まる。それができる人こそ社会にとって意味がある。

そう考えると、試験制度という、ある意味で過酷で恣意的な社会制度が続いてきたのにも、合理性を認めざるを得ない。バランスの悪い人は途中で脱落する。試験を突破するか否かは、やはり一定のスクリーニング効果を果たしているのだ。

私の専門分野から言うと、脱落する人にはたいてい共通点がある。それは、「要約が出来ない」ことである。要約は、いわば世界とつながるための共通土台=プラットフォームである。世界の大部分の人が理解するであろう内容を、自分も共有できれば、他人と冷静に話が出来る。
だが、自分と世界の間の理解がずれると、同じものを読んでも、他人と大幅にずれて感じる。そういう状態のままで他人と話をするから、ことごとに他人と対立してしまう。でも、自分ではそこに気づかないから、「他人は、なぜ自分に不当な扱いをするのか?」と怒りを覚える。

こういう人は「独我論」的不幸にいる。「独我論」とは、他人が「痛い!」と言っても、それは自分の「痛い」とは違う感覚かも知れない。他人の心の中はのぞけない、分かるのは自分の感覚だけだ、という哲学的議論である。

ヴィトゲンシュタインは、「独我論」はありえないと言った。そもそも「痛い」という感覚自体「ゲームの規則」を共有することだからだ。相手が「痛い!」と腹を押さえたら、「大丈夫?」と駆け寄るのが「適切な振る舞いだ」ということを身につける。たまたま、自分が具合が悪くて腹を押さえたら、「大丈夫?」と他人が駆け寄ってきた。「そうか、これが痛いということなのか?」と心づく。相互行為の中で自覚が生まれる仕組みになっているのだ。

要約が出来ない人は、この共通土台が形成されていない。だから、相手の言葉や反応が、つねにねじれ、ずれて伝わってしまう。その結果、ゲーム規則は共有されず、無用な摩擦や誤解が生まれる。周囲からサンクションされても、怒りや恨みを生むばかり。これは、周囲とのコミュニケーションが成立しない。いわば世界に対して「窓が開いていない」状況にある。なぜなら、周囲の反応は、すべてそのままに反映されず、自分なりにねじ曲げられて、歪んで映るからだ。その自分の像に対して、怒ったり恨んだりして、他人や世界に到達する通路がない状態だ。

先ほどの合格者は、以下のように書いてきている。

「小論文の講座では書くことよりも、文章の読み方や物事の考え方を教わったことが、私にとって有益でした。逆にいえば、今までそういった基礎的な部分が足りなかったことを痛感しました。ここで学んだ読解力や論理展開力が、論文作成の基礎力として少し自分の身に付いたように思います。」

よい言葉だと思う。小論文というと、つい「どう書くか?」にばかり焦点が当てられがちだが、実はそうではない。言葉を理解して、その理解を周囲と共有する。その土台の上で提案したり、アイディアを述べたりする。その相互コミュニケーションこそが大事なのだ。講座を重ねていくうちに、彼にも、その過程が確実に実感されている。だから、周囲からの反応で、自分を修正し、より高い次元に立つことが出来たのだと思う。

学校に行くということは、学歴を付けたり、資格を取ったりする手段だと思われている。しかし、学ぶことは手段ではない。むしろ、それは、真理(と思われるもの)に対して、心の通路を開くという作業である。だから、学校で教わることを権威と受け取ると間違いだ。なぜなら、教師は「学校の存在意義に疑問を持つ」ことさえも要求するからだ。それが、真理に達する「謙譲」の姿勢だ。逆に言えば、この姿勢さえ掴めれば、後は自分でやっていける。私心なく、全ての人々がおそらく受け入れるであろう意味を読む。合格した彼も、そのスキルを掴んでくれたのだと思う。

これからのボカボのReal Schoolは「法科大学院小論文・志望理由書 年末・新春」と年末から始まります。それが終わったら、1/15から「法科大学院 適性試験Start Up!」。2月(詳細日程は12月中旬発表)には、「公共の哲学を読む―レイチェルズ」もあります。どの講座も、通念から脱却して、新しい発想につなげます。とくに2月の講座は脳を刺激する快感の講座になります。みなさまの参加をお待ちしています。


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