2011年1月

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●日本語読解力

中華料理店で昼ご飯を食べていたら、お隣の席のカップルが「近頃は、英語だけじゃダメなんだよね」と話している。「…中国語もできなきゃね」と続くのかと思ったら、「日本語力が大事なんだよ」と言う。どうも、男の方は海外留学の経験もあるらしい。

「日本の会社で働く限り、英語ができても仕方ないんだ。やっぱり日本語の理解力が大事なんだよ。僕らの取引先なんて、ほとんどインドとかバングラデシュとかマレーシアとかだよ。相当、ビジネスで成功している人だって、SinglishとかPigeon Englishで済ませているんだから、アメリカの大学で教えてくれる『格調高い英語』なんか使うと、かえって取引先から怒られるんだ。『お前、生意気だ』って。あんなに苦労してバカみたいだったよ」
「えーっ、そうなの?」
「それに、日本人がいくら一生懸命やったって、nativeからは『日本人のわりにはよくやるね』というぐらいにしか見てもらえないからね」
「nativeたちが貧乏になって、日本の製品を買ってくれないんだから、上手になってもリターンがないしね」
「それより、日本の会社で成功しようと思ったら、日本語力だよ。それも読解力。情報の意味を深く正確に理解して、的確な行動につなげるには、読解力だね」
「そっかー」

やっと、ここまで来たか、と思いました。しばらく前だと「日本語ブーム」というと、「敬語の使い方」とか「問題な日本語」とか「漢字検定」あるいは「外人の妙な日本語」のようなレベルだったのに、理解・読解が大切だということになった。1つ段階が上がったのかな、と思います。

日本の中に、外国人がたくさん住んでくると、その人たちも当然日本語を話す。その中で、日本人以上に日本語を使いこなす人も出てくる。中国生まれの作家とか、スイス人のエッセイストとか、アメリカ人の評論家とか、もう誰も珍しいと思わない。「ほら、また敬語を間違えた」と指摘して、自分の優越感を満たすというレベルではなくなっている。

その意味で、日本語も一部ではリンガ・フランカ(共通語)の位置にきたのかな、と思います。こういう状況は、英語やフランス語ではもう随分前から出てきている。たとえば、アゴタ・クリストフ『悪童日記』Le Grand Cahier、知っていますか? 一時期日本でも話題になったけど、作者はたしか東欧の出身で、スイスのフランス語圏に移住してきて、フランス語で小説を書いて、世界的ベストセラーになった。

私は、それを原語で読んでビックリ。まず、フランス語の簡単なこと。私程度の貧弱なボキャブラリーでも辞書を引かないで分かる。文構造も時制もシンプル。それでいて格調高い。逆に、物語構造は複雑で、シリーズを最後まで読むとあっと驚くどんでん返しも待っている。小説として読んでいて、文句なしに面白い。ああ、こういうバランスがあり得るのか、と感心した覚えがあります。私もこんな小説なら英語で書けるのでは(もちろん本当はそうでないのだろうけど…)と思わせる。ずいぶん勇気づけられた感じがしました。

共通語による表現とは、こういうものなのかもしれません。複雑な時制など、その地域独特の言い回しなどしだいに姿を消して、シンプルで普遍的な面白さだけが出てくる。これだけいろいろな文化圏の人が日本語を使うようになると、日本語だって同じでしょう。「日本語独特の言い回し」などという細かなレベルで自己主張することを止めて、日本語の単語・構文を使いながらも、シンプルで普遍的な表現・内容が評価される。基礎的な漢字、シンプルな言い回し、最小限の敬語などで、むしろメッセージの内容を工夫するようになる。当然、それを読み解く方も、漢字・言い回しではなくて、理解・読解に注力せざるを得ない。

「言葉は道具ではない」とよく言われるけど、言葉を民族的アイデンティティと同一視する見方もどうかと思う。むしろ、ニューヨーク、ロンドン、パリなど「世界都市」で暮らす人が多くなってくると、その「世界都市」で優勢な言葉を使ってコミュニケーションするのが効率的です。日本にも東京という「世界都市」が厳然としてある。日本語はその「世界都市」語としての役目を果たす。そうすると、日本語が民族の主張ではなく、コミュニケーションの道具となる。細部の複雑さにこだわるのは滑稽です。むしろ、メッセージの明確さ、全体構造の見通しの良さがポイントになる。その意味では、言語はやっぱり道具と考えた方がよい。

だから、日本語への興味が漢字・敬語ではなく、理解・読解になったことは、本当に喜ばしい。日本語のパワーへの注目が、民族的コンプレックスの裏返しではなく、真に実践的なものになったと思われるからです。数年前拙著『だまされない議論力』で、日本の国語教育をさんざん批判したけど、ようやく時代の方が追いついてきた。うれしいですね。

さて、大学入試のセンター試験も終わり、1/24からは「慶應難関大小論文 冬のブチゼミ」が始まります。直前期に気合いを入れ直すだけでなく、本格的に文章を理解し、それに対して議論をふっかける力を飛躍的に養成します。毎年、合格率も驚異的に高いのです。ぜひ、志の高い受験生たちに来て欲しい。きっと元気になると思いますよ。世界に開かれた日本語とは、どういうものか、分かると思います。


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●弁当男子宣言!

新年は朝から仕事に行くことになったので、久しぶりに弁当を持って行った。そうすると、「先生、愛情弁当ですね」と言う。「いえ、ナルシズム弁当です」すまして答えると、皆絶句。「…自分で作りますから」。相手の顔がやっと和らぐ。「あ…あ、なーるほど。すごいですねー」「だいたい、弁当っていうと、奥さんが作ると思いこむのは、セクシズム=性的差別ではないですか?」「……」ふたたび絶句。

15年前から、学校などに講義に行くとき、私は昼食は自分で作った弁当にしている。学校で注文できる店屋物などまずくて食べられないからだ。昔は、そうでもなかった。バブルの時代など、あれこれ寿司の出前など取ったこともあった。自分の稼いだカネで食っているという何だか誇らしげな気持ちもあったかも知れない。

でも、その内にすぐ飽きて、自分で弁当を作って持って行くようになった。朝、30分早めに起きて、飛騨の曲木細工の弁当箱にご飯を詰め、冷蔵庫をごそごそ探して、適当におかずを詰める。前日の夕食の残りを入れることもあるし、常備菜を作っておいて入れるときもある。手間をかけないように工夫して、しっかり詰めるのには頭も手も使う。速く目が覚める。朝の運動としてはちょうど良いのだ。

昼に食べるときは、食べながら、今日は上手く行ったな〜と一人ほくそ笑む。だから、昨晩の残り物でも、また格別の味わいがある。生活を楽しんでいる、充実しているという感じがしみじみするのだ。

何でもそうだが、消費だけの生活はつまらない。そこには、「美味しいものを食べた」「ごちそうを食べた」というような薄っぺらな物語しかないからだ。そうでないのなら、「みせぴらかしの消費」かな? でも、自分で作るというoutputをすると、それは食べるときに物語として蘇る。味だけではなく、濃厚な物語も味わうことができるのだ。

昔、私は祖母に「米にはお百姓さんの八十八回の手間がかかっている」と言われた。これは食べ物への感謝を忘れるなという意味だが、その伝で言えば、自分で作った弁当だって負けていない。手間がかかった分、食べるときに感謝の念が湧く。誰に対して? もちろん、今日も食べるものを自分で用意することができた。そういう状態を保てている自分の幸運に対して、さらに、それを恵んでくれた何か偉大なる存在に対しても。弁当を食べるとは、私にとって祈りの時間でもある。

この頃は「弁当男子」という人種がいるらしい。それを「草食系」だとか「中性化」だとか批難する声もあるらしいが、何が悪いか、と思う。自分で作った弁当を食べ、自分のかけた手間を思い出し、それが上手く行ったことをしみじみと幸福に思う。ナルシズムと言わば言え。でも、生きることに小さな楽しみを見つけられるということは、生きる上での必須の技術だと思う。

現代人には、共有された大きな物語がなくなったとポストモダニストは言う。でも、それは全然嘆くべきことではない。むしろ、自分独自の物語が働く余地が出来た、ということだ。むろん、大きな物語がなくなったから「何でもあり」が許されるわけでもない。むしろ、もう一度自分が確証できる基礎からやり直すべきだ、ということなのだ。

そもそも、人から与えられた食物で済ませるということは、自分の感覚やスキル、つまりは自立性を人に売り渡すのと同じことだ。もちろん、お米や材料自体は誰かが作ったものだ。そこまで私の自立は及んでいない。でも、それに自分が一手間加え、おいしいもの=美的なものにして、感謝しつつ食べる。人間が生きる幸福は、これに勝るものはないし、それを人にもしてあげられれば、もっと良い。

万国の労働者よ。弁当を作れ。外食をするな。安くて美味いぞ。人のためにもなるぞ。ブルジョワジーの外食資本主義の味に魂を売り渡すな。幸福を自分の手に。マルクスなら、こう言ったかも知れない。

これは、書くという作業も同じことだと思う。情報をたくさん取り入れるだけでは自立できない。いかに拙くても、それを加工して、一手間かけて、より納得できるものにする。それを人にも渡す。味わってもらう。自分でも味わう。こういう作業を通して、生きること・理解することは、はじめて先の段階に行けるのである。書食一如。弁当を作るということは、論文にも通じるのかも…。

さて、2月19, 20日と3月19, 20日には、いよいよ「公共の哲学を読む―レイチェルズ」集中講義演習が始まります。新進気鋭の講師が、「倫理学不毛の地」日本で、はじめて信頼できる講義をしてくれます。サンデルの「ハーバート白熱授業」なんて目じゃありませんよ。めったに聞けない貴重な機会ですので、ぜひお出でください。




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