2011年2月

2/27

●独裁者のあがき

リビアで独裁をしていたカダフィが窮地に立っているとか。日本では、対岸の火事のように見物し、「原油の値段が…」などと日本への影響は限定的だというようなことを言っているが、日本でも、ネットの影響で独裁者の権力が脅かされていると思う。

一つは新聞社・放送局・出版社による情報発信の独裁=独占である。

新聞・放送局のていたらくは本当にヒドイ。ネットに載っていた情報が、数日遅れで新聞記事になる。速報性ゼロ。それでも、深い取材や鋭い分析があればまだ良いが、購読・視聴減少を避けようとしてか、より扇情的・より近視眼的・より内向きになっている。

最近では、NZ地震の報道氾濫。今日のA新聞第1面は、「崩れた日常」という見出し。あまりにもクサイ!

もう地震は起こってしまったのだし、地震になれば今までの日常がうまく行かなくなるのは当たり前。で、それをニュースで伝える価値があるか? ネタがないので、ブンガクくさい表現でお茶を濁したとしか思えない。日本人被災者にしてもそう。天災なので送り出した/受け入れた学校にも責任はない。それなのに、逐一状態を報告させる。学校側にインタビューする。家族の悲嘆の声を聞かせる。

不明の日本人は数十人(十数人?)のレベルである。亡くなった方には、本当にお気の毒だが、どうすることもできない。それを名前・学校、現地の様子まで、何日にもわたって報道することなのか、かなり疑問に思う。そんなことやって、救助活動が早くなったりする?

実は、この報道氾濫のかげで、重大なニュースに取りあげられていないものがある。韓国を訪れたインドネシア高官が泊まったホテルの部屋が、韓国のスパイによって荒らされた、というニュースがあった。国家間の大型商戦に勝ちぬくために、パソコンに入った情報をこっそり盗もうとしたのだ。私は、このニュースをKabar Kitaというネットニュースと、東奥日報で知った。「インドネシア政府は韓国政府に詳細な説明を求めている」とか。

もし事実なら外交上の大スキャンダルだ。unfairなやり方をする点では、北朝鮮と五十歩百歩。この方法をブラジル新幹線の落札の時でも使っていたのかもしれないと思わせてもしかたない。日本だって、今後、韓国との関係を再考しなければならないかもしれない。でも、日本の新聞には一行も出ない。どういうわけ? 

地震の報道は、いくら追っても「助かった/亡くなった」のいずれしかない。人命が大事なのは当たり前だ。しかし、心配をしているふりをしているが、実は、「助かった/亡くなった」と自然相手の点取りゲームを強化しているだけだ。そうだとしたら、日本のマス・メディアは報道機関であることを止めているね。

経済的に見ても、リビアの動乱の方が日本に与える影響は大きい。原油の値段は上がり、経済は苦しくなる。国民に与える影響は、むしろ外国の事情なのに、地震の被害者の方が優先させる根拠は何か? 右翼をバカにするけれど、新聞・TVだって充分「国粋主義」的だ。もしかしたら、日本のマスコミは、結構「大本営発表」から変わっていないのかも知れない。

もう一つは著作権という参入障壁。

書籍協会が「自炊業者」に著作権侵害のおそれがあると警告したという。まったくもってトンマだね。皆が自炊に走るのは、日本の出版社がなかなか電子書籍を導入できないからだ。自分達がノロノロして、読者の需要を見越した他業者がすばやく参入すると、「ここは俺たちのシマだ」とばかり、著作権を盾に妨害しようとする。自己反省が欠けていないか?

もっと悪いのは、そういう出版側の意を汲んで、曲学阿世(真理を曲げて世間の気に入るような説を唱える こと)の弁護士が「著作権侵害」を言い立てることだ。「著作権」のおかげで、どれだけ本を作ったり、意見を言ったりすることが面倒になったか、彼らは分かっているのか? 

まず英語のテキストは作りにくくなった。たとえば、英語の単語集に例文が掲載できなくなった。いちいち著作権を取らねばならないからだ。結局、大学の先生が自分の書いた文章でテキストを満たす、という事態にもなっている。今の学生は多様な文章に触れる機会を奪われているわけ。日本の学生の学力を下げてよいのか?

だいたい、私の知り合いは、自炊をするのがもったいないからと学生を雇って、iPadに自分の持っている本を入れさせた。これは「個人使用」の範囲だろう。だったら、代行業者が読者に雇われて「自炊」してやるのだって合法じゃないのか。そのうえで、読者が捨てていった本を棚に置いて、勝手に使用して良いですよといって何が悪いのか?

ツイッターでこんな文章が載っていた。「日本でGoogleを思いつく→著作権法違反で逮捕。日本でFacebookを思いつく→個人情報保護法違反で逮捕。日本でセグウェイを思いつく→道路交通法違反で逮捕」たしかに!創造性が重要だと良いながら、その芽をつぶすのが、日本の大人社会の常道だ。

日本では、封建時代が終わってから150年も経つのに、未だに関所感覚が抜けていないのかね。でも、江戸幕府が、黒船の来襲でもろくも崩壊したように、交通の遮断をしたって、教育と法律で強制したって、何の役にも立たない。技術的革新の速さと人間の好奇心の深さに障害を設ける人々は必ず滅びる。

マスメディアという巨大組織は、インターネットの前で崩壊寸前だ。「ジャスミン革命」はチュニジアやエジプト、リビアだけのことではない。日本でも、経済や情報という独裁=独占分野で戦われている。


2/23

●至福の時間

公共の哲学―J・レイチェルズを読む』は、とりあえず二月分が終わりました。二月という忙しいときに集まってくれた受講者に感謝。さらに、刺激的なお話をしてくれたFujiwara先生に感謝。明快かつ鋭い整理の仕方に、参加者は感動。いい時間でした。

倫理というと、すぐ道学風のお説教をしがちな日本の倫理学は大嫌いなので、レイチェルズの本も「利己主義」から説き起こしているところが、私はチョー好みです。そもそも、すべての学問は「何で必要なんだ?」という問いに応えないといけないと思う。とくに倫理はそう。

だって、世上、道徳についての議論はむちゃくちゃな与太話が多いからです。「近頃の若者はけしからん」からはじまって、「大和魂」とか「家族の絆」とか、おバカな言説が多すぎ。だからといって、「人間どうせ色と金だ」とか「道徳なんて文化によって違う」「文化相対主義」なんて言葉も何だか気持ち悪い。「神を信じなさーい」なんてほとんどドンピキの世界である。

いったい、どうすればいいのよ、と思うのだけど、Fujiwara先生の原理はすごく明快。「道徳/倫理は客観的に決まっている。でも、それに従わなくてはならない理由は全くない」。スッキリしていると思いませんか、こういう逆説的な立ち位置? なぜ、こうなるのか、その解説もfairきわまりない。質問が出ると、立て板に水の説明。だが、質問者・反対者にはとことん立ち向かう。

哲学とは、ひたすら全力を振り絞って、明快に考え抜くこと。それを実践している彼の姿に、ほとんど「彼岸の世界」を感じるのは私だけでしょうか。それは、参加者も同様だったみたい。

「昨日と一昨日の二日間は、大変充実した至福の時間となりました。このような機会を与えてくださってありがうございました。一緒に来たAさんもとても満足されたとのことです。(論争それ自体の納得は別として。)3月20日も楽しみにしております。」

日本が「元気がなくなった」とか「衰退している」とか嘆く声が多いけれど、これだけレベルの高い講義についてきて、しかも楽しみながら味わう人々がこれだけ存在しているということは、むしろ恩寵だし希望だと思う。美とは、別に絵や音楽みたいな美的消費財にだけあるのではない。「考える」という無形の営みにもあるのです。

しかも、それは不要不急な知識どころではない。為替相場とか組織管理、あるいはお金儲けなど俗な事柄が重要なものだとどうして言えるのか? お金はたんなる幻想の基準にすぎない。お金をいくらたくさん稼いだって、不幸な人は山のようにいる。むしろ、お金があるから不幸な人が多い。あるいは、家族の絆が深くったって、あるいは深い(不快?)ゆえに不幸な人も数限りない。

それに対して、倫理学は、我々が日々生きていること、その意味を探求するのだから、むしろ経済学や経営学より切実かもしれない。その意味で、日本人はやっと高度成長という悪い夢から覚めたのかも知れない。だから「モノさえあれば幸せ」なんてナイーヴに思えない。でも、どうすれば幸せなのか? そもそも「幸せ」なんていいことなのか?Fujiwara先生の話を聞きながら、いろいろ考えさせられます。

「至福の時間」とは、日常の文脈から離れて、そういう根本的なことに直面する快感かもしれない。極限から極限まで、ジェットコースターのように頭を動かす! 三月もムチャクチャ楽しいと思うよ。二月に来れなかった人も、ぜひお出でください。けっして、後悔はさせません。次回はカント主義から。軍国主義の傍らで、日本の近代を支配した倫理理論カント主義の正体とは何か? です。 では、3/20にお待ちしています!

2/16

●無罪プロジェクト!

しばらく、年度版で出している本の原稿を書いていたり、新書の原稿に追われたりしているうちに、いろいろ世間では事件が起こっているらしい。相撲、サッカー、小沢問題、エジプト革命などなど。でも、どこか遠いところの出来事のようで、何となくコミットできない。どれを見ても、大して変わりはないよなー、と思ってしまう。ちょっと疲れているのかもしれない。

でも、この間、TVを見ていたら、アメリカのロースクールで「無罪プロジェクト」という活動があるのを知って、久しぶりに昂奮した。ロースクールの学生たちが、全米で無実の罪で入獄していそうな人を見つけ、その証拠を調べ、再審に持ち込み、救い出すというプロジェクト。終身刑になっている人が、このプロジェクトで再審にかけられ、刑務所から出てくる。しかも、その内の一人はロースクールを受けて合格し、今では弁護士として無実の罪で刑務所にいる人を救う活動をしているのだとか。

アメリカは、この頃衰退していると言うけど、こういうプロジェクトを、おそれも知らずにやるのは、さすがだと思う。しかも、それを指導しているのが、ロースクールの教授たち。授業の一環として学生達も必死に調べる。すごくエキサイティングだね。日米では、法や学校の制度に違いがあるのだろうけど、若い人たちは、こういうことに取り組まなきゃダメになっちゃうよね。

それに比べて、日本の若者は大人の都合に合わせてばかり。「どうやったら就職できるか」ばかり話題になる。「好感を持たれる受け答え」「好感を持たれる髪型」「好感を持たれるお辞儀」エトセトラ。これじゃ、いい加減生きているのがイヤになる。

ロースクールだって、司法試験に受かるための詰め込みスクールと化している。実際に、世の中を変えるのではなくて、むしろ、従順な羊になって法知識を学ぶ。これはけっこう絶望的な状況だと思う。鼻っ柱の強いうちに、「これで世の中変わる」という経験を積んでおかないと、単なる現状肯定派を製造するだけになってしまうだろう。

若い人たちは気の毒な状況であるのはたしかだが、「司法試験を通ればバラ色」という気持ちは思いこみだと思う。「司法試験に受かって、ローファームに就職して年収1500万」なんて考える人もいるが、まああり得ない話だね。どんな職業だって、実績を積み重ねていくほかない。キャリアを作る、とは、本来そういうことであった。ところが、試験に受かるのが大変なので、それだけで通用すると思ってしまう。

日本の試験制度が、こういうエリート層の心性を作り出しているとしたら、将来的に大きな害になると思う。誰か、日本のロースクールで「無罪プロジェクト」をやってみようという人はいないのかな? 腕一本で、脳の一個で世の中変えてみよう、という人は出てこないかな? そういう野心を持った人をスポイルする社会は息苦しいね。

さて、いよいよ2/19, 20と「公共の哲学―J・レイチェルズを読む」を行います。「ハーバード白熱授業」など、日本でも「正議論」のブームが起こりかけたのだけど、今1つ日本人の「白熱授業」は盛り上がっていない。この原因の1つに、大学の教員が反骨心を持てていない、という背景があるのではないか、と思う。その意味では、今回の講師は深い教養と反骨心を併せ持つ日本には珍しいインテリです。きっと、知的にワクワクする体験になると思います。まだ席はあります。受講申し込みは、ここにどうぞ。





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