07年 東京大学法科大学院 合格再現答案 Sさん

私が東大の試験で書いた答案を再現してみました。

パソコンで書いたので言葉遣いなどは多少良くなっている気がしますが、構成・内容は当日書いたものとほぼ同じになっていると思います。

冷静になって家で書いてみると、問題がよく見えました。総合問題2のトクヴィルの文章については何を書くかあまり思いつかなかったので、とりあえず書いたという状態になっていて、十分ではないと思いますが、むしろこれくらいのレベルでも受かるという点で参考になるかもしれません。


 未修の小論文の課題は法と社会の関係を広く原理的なレベルで問うものが多いですが、 法律家となる上では、法の解釈論だけではなく、こうした考え方も培っていく必要があると思います。


総合問題1

問題1

 太郎が困ったのは、搭乗時のケースでは、重くかつ不確実な責任を伴う判断を任せられたからだと考えられる。普段の診療時には責任の範疇が慣行として明確化されているのに対し、問題のケースにおいては曖昧な部分が大きすぎるのである。
 もちろん、病院においても医師は、病名と適切な処置を決めるという重大な決定をする。しかし、周囲のスタッフと様々な医療器具の援助によって、診断の不確実性は下げることができる。また、医療事故時の保険などの知識があることで、責任は想定された範囲に留まる。
 それに対し、問題のケースでは、医師は自分の知識と勘だけに頼らなければならない。また、誤った判断をした場合には医療事故とされるのか、あるいは状況を鑑みて免責されるのかも明らかではない。さらには、患者の状態の緊急性から、多くの人に迷惑をかけても緊急着陸すべきかというさらなる判断も加わる。太郎が困ったのも当然であろう。

問題2

 社会通念とは、社会がどう機能し、またその中で個人の行動がどう評価されるかへの想定から成り立つ。そのため、社会通念はその社会の中で一定の妥当性を持っている。個人はそれに従うことで、様々な利益を得ることができるのである。こうした社会通念は、より妥当性の高い認識に基づく考え方によって変更されうる。新しい考え方がより大きな利益をもたらすものであれば、人間の合理的精神は容易に移行できるのだ。
 よきサマリア人法は、こうした移行の一例だといえる。診断が誤る可能性が高く、また訴訟リスクなど責任がはっきりしない場合には、名乗りでないことは医師にとって合理的である。本来、医療訴訟は、患者にとっての利益を意味していた。医師と患者の間には情報や力の非対称が存在しており、患者にとって司法の介入はそれを改善する手段の一つだったからである。しかし、医師が飛行時の急患を診察しないとなれば、訴訟を起こす権利はむしろ患者の利益を妨げることになる。そこで、よきサマリア人法は、こうした社会状況を考慮し、医師の善意の行動に責任を問わないことで、患者の利益を守ろうとするのである。
 児童虐待への対応も、既存の社会通念の合理性の認識からなされる必要がある。これまで児童虐待が放置されてきたのは、私たちの社会観の根底に公私二分論があったことが大きい。公私二分論は、国家による安易な人権侵害を妨げるという重要な役割を果たしてきた。しかし、児童虐待のケースにおいては、公から隔離された私的な領域で個人の利益が著しく損なわれてしまっている。この場合、児童を保護するためには国家の介入は避けられないが、その際には人権侵害のリスクにも配慮した制度設計が必要であろう。
 社会の変化に対応するには、人々の行動を規定する社会通念も変わる必要がある。法は社会の認識から権利関係を調整することで、社会通念を変えていくことができるのだ。

総合問題2

問題1

 アメリカの法律は、素人には理解しにくい判例を中心として作られている。そこから、法律家の独占的な権利とそれに伴う地位が生じる。また、イギリスと同じく、アメリカでも法律家は伝統によって作られる法律を尊重する点で、改革に反対する保守勢力となる。貴族階級の存在しないアメリカでは、法律家は第一の保守的政治勢力なのである。
 こうした法律家の存在は、アメリカの民主主義が均衡を取る重要な役目を果たしている。民衆は、情勢や観念に駆られ、多数の支配による性急な改革に走りやすい。法律家は、その保守的な傾向から、違憲判決などの手段によって行きすぎた改革を押しとどめるのだ。
 しかし、アメリカには、同時に司法的権力が拡大し、社会に悪影響を及ぼす危険性もある。政治問題が司法問題に直結し、また陪審制によって人々が法的思考になじむことで、司法的発想は社会に拡大する。その結果、法的思考が社会を規定してしまう危険性があるのだ。

問題2 

 トクヴィルにとっては、民衆の専制は恐怖であり、それをくい止める勢力の存在は不可欠と思われたに違いない。イギリスではこうした保守勢力は貴族階級であったが、貴族階級の存在しないアメリカの場合その代替物をなすのが法律家だったのである。
 翻って日本の状況を見れば、法律家は安定した法秩序へのこだわりを持つものの、勢力としては保守・革新の政治からは外れた位置を占めている。日本の保守派は、強権的な国家主義的発想から、個人の権利を規定する法律の在り方に批判的である。こうした保守派の主張は、近代的法秩序が、外から導入された疑わしいものと思われがちなことに起因している。他方では革新派も、性急な改革によって社会の改善を求める点で、法秩序の維持に対しては緊張した関係に立ってきた。こうした政治対立に規定されつつも、法律家階級は、法制度の必要性を説くという独特の立場に立ってきた。
 トクヴィルは、こうした日本社会を見て、安定した法秩序への信頼が政治的対立を超えて必要なことを主張しただろう。日本の状況では、政治が左右のどちらに偏っても多数者の横暴に帰結しかねない。それはひいては、民主主義の危機にもつながる。これをくい止める手段として、人権などについての法的思考が広く理解される必要があるのだ。