13年 早稲田大学法科大学院  合格再現答案 Nさん


 早稲田大学法科大学院の再現答案です。
構成を元に再現しましたが、内容については一部異なるかもしれません。

本年度の問題は非常に自由度が高かったように思います。本文中の情報だけでなく、自分なりに解釈を加えて書く必要がありました。
問1は要約の型からはかなり脱していますし、問2は解決策まで十分に論じることはできませんでしたが、無事に合格することができました。
お役に立つことができれば嬉しいです。




問1 (1頁以内)

 筆者が言う「自己責任論」とは、貧困に陥った責任を個人に負担させるという考え方である。貧困生活に苦しむことになったのは個人の不適切な行動が原因なのだから、その結果も自己の責任において個人が甘受してしかるべきだとするのである。
 この考え方に基づけば、以下の2つの例はともに当事者の責任として片づけられることになる。まず、無駄遣いが多いために支出が収入を上回る生活が続き、自己破産してしまった場合である。次に、無駄を切り詰めているにもかかわらず、貧困状態から脱することができない場合である。
 たしかに、前者の例は、本人が無駄を省くような努力をすることが可能だったという意味で「自己責任論」が当てはまる余地がある。しかし、後者の例ではそうとはいえない。状況を改善するための手段が残されておらず、必然的に貧困に陥っているからである。
そもそも「自己責任」とは、自己決定によって行った結果に対する責任は自らが負うという考え方である。とすると、責任を負うか否かは、結果が自己の決定よって引き起こされたかどうかによって判断することになる。そうだとすれば、後者の例では、貧困の原因たる不適切な行動が存在しない以上、責任を負う根拠はないのである。
 このように、「自己責任論」は貧困に陥った経緯を分析することなく、責任を一方的に個人に押し付けてしまう恐れがある。筆者はこうした問題点に着目し、「自己責任論」に対して否定的であったのだろう。

 

問2 (字数指定なし)

 筆者は、貧困問題は属人的な原因だけではなく、社会構造によって生み出される場合もあると考えている。筆者は派遣村で相談者のサポートを行う中で、支援を受けたにもかかわらず、再び貧困生活に転落する人々を目にしている。一見すると、当事者の呆れた行動が原因であるように思えるが、数多くの相談者から問題が噴出する状況から、構造的な何かが影響していると感じるようになっていく。他方で、筆者は貧困を「溜めのなさ」という言葉で説明する湯浅氏の考えに共感している。外界の問題から生活を守る役割を果たす「溜め」がないことが、貧困状態に陥る原因だと捉えているのだろう。このような貧困問題を解決するには、貧困者個人への支援では足りない。特に筆者は、相談者の「屋根があっても何も変わらない」という言葉を受け、物質的な支援の限界を感じている。むしろ、「溜め」のない社会構造自体を変える取り組みが必要だと筆者は考えているようだ。
 たしかに現代の日本社会には「溜め」がなくなってきている。これは、新自由主義の導入以後、社会を支えるセーフティネットのあり方が変化してきたためだろう。企業の規制緩和を行う一方、人々に対する社会保障費を削減していった。他方で、安価に雇用できる非正規労働者を積極的に採用するようになり、雇用環境が悪化していくことになった。このように、セーフティネットが徐々に弱体化してきたのである。
 もちろん貧困問題の発生は、こうした社会的な「溜め」の喪失に起因する。しかし特に問題なのは、人間関係における「溜め」までもが失われてきていることにある。かつては、何か問題が起こっても、家庭や地域の中で解決するのが通常だった。だが、社会が不安定になるのに伴い、それらにおける人間関係が希薄になってしまったのである。たとえば、年金制度が崩れたことで、子どもが失業しても親が養ってやることが難しくなった。他方で、薄給しか得られず生活にゆとりがないために、親族や友人との関係を維持できなくなる。さらに、地域の商店街の多くはシャッター街になってしまい、地域の人々が顔を合わせる機会も減少した。こうした「溜め」が喪失したことで、貧困から抜け出すきっかけをつかむことがより難しくなってしまったのだ。
 我々は、こうした状況を自覚しなければならない。人間関係の「溜め」を失った貧困者は、誰かに助けを求めることさえしなくなり、貧困層の底辺まで落ちてしまうおそれがある。そうならないように、社会構造のあり方とともに、貧困問題における人間関係の重要性にも目を向ける必要があるだろう。