2 demonizing/ moralizing ボカボ さま 9月に入ってから小旅行が続いたり、客人を迎えたり、落ち着いて机に向かう時間がなかなか持てませんでした。と言うことは、もっとも集中力の要するテキスト推敲が進まないということ・・・。いきなり言い訳で恐縮ですが、お約束の原稿を送ります。 ドイツで記録的な暑さを記録した7月の次は、記録的に寒い8月となりました。8月末に南ドイツ・アルプスに出かけましたが、冬服着用、室内暖房オン、さらにドイツアルプスの山頂にはすでに白く雪が積もり、いくらなんでも「早すぎる」と思ったものです。ところが、9月に入ると、寒さは緩み、快適な気候となりました・・・そしてヨーロッパの夏〜初秋の美しい日々が続くなか、昨日日本に戻りました。そう、原稿よりも早く身体が日本に着いてしまった。しばらく日本に滞在しますが、10月上旬まで東京を留守にすることが多いと思う。ベルリンに戻るのは、希望としては11月中旬ですが、どうなりますことやら。 ところで、「です・ます体」での文章を書くのが辛くなってきました。基本的にボカボ宛てに書いているという意識があるので、必然的に「です・ます体」になったわけだけど・・・思考やアーギュメントそのものが薄められるように感じることがあります。「かったるい」というのもあります。もちろん、「です・ます体」で長文を書くことに慣れていない、ということなのですが。次回からは普通文体にするかもしれません。あしからず。 では、また。/芽 シュヴァルツコップの追悼記事 8月3日は父の祥月命日で、その日は父の思い出に引き摺られるように、さまざまな「過去」を脈絡なく思い出してはそれぞれの意味について日がな一日考え込んでいたのです。そして、夜遅くのニュースでエリザベート・シュヴァルツコップの死を知りました。父と同い年の彼女が父の命日に亡くなったことで――もちろん単なる偶然ですが――私の「過去」への思いは父からシュヴァルツコップの歌声へ、そして彼らが生きた時代へと、混乱しながら続いていったのでした。 オペラやドイツ・リートがとりわけ好きでもなく、「シュヴァルツコップ=偉大なソプラノ歌手」程度の認識しかなかった私にしては珍しく、彼女の追悼記事を複数のメディアで読んでみました。父の命日と重なった偶然、「過去」への思いの連鎖とも言えますが、何よりも最初に読んだ『ル・モンド』の追悼記事があまりに悪意に満ちているようで驚いたから。読み進むうちに、その論調にかなりの揺れがあることに気が付きました。シュヴァルツコップの芸術性については各紙一様に高く評価していますが、問題はナチス政権下での彼女の活動についてです。彼女の戦争中の「過去」は例外なく言及されていましたが、2,3行でさらりと記述するものから、かなりの分量を割いてナチスとの関係を厳しく断罪するものまで、扱いはメディアによって大きく異なっていました。 1996年に出版された伝記で彼女がナチスの党員であったこと(少なくとも党員証が発行されていた)がはじめて明らかとなりました。96年当時の彼女はすでに高齢で引退して久しい、ナチスの活動に積極的に関わっていたわけではない――つまり、音楽を続けるにはナチス体制を受け入れるしかなかった――こうした事情から、ナチスとの「過去」ではなくて、声と歌唱によって彼女は記憶されるべきだという暗黙の了解があるように思っていたのですが、追悼記事で今さらのように問題の根深さを知りました。 亡くなった人に対する誹謗中傷は慎むべき、という日本的な甘さを理解する私がたじろぐような記述も少なくありませんでした。シュヴァルツコップがナチス党員であった「過去」をどのように論じるべきか、いかなる時もその「過去」を取り出して批判し続けなければならないのか。この問題は彼女に限ったわけではありません。ナチス政権のもとで生き延びたドイツ市民、戦争を生き延びた日本人・・・彼らの「過去」をどう受けとめて評価するのか。簡単には答えが見つからない問題にあらためて直面することになったのでした。 ギュンター・グラスの「過去」 シュヴァルツコップの追悼記事で抱え込んだ問題が消化しきれぬまま1週間余が過ぎた8月12日、ギュンター・グラスがナチス武装親衛隊(WaffenSS)に所属していたいうニュースが流れました。このカミングアウトには誰もが驚愕したようです。日本ではどのような論調で報道されたのでしょうか。 告白は次の2点に集約されます。1)第2次世界大戦末期、17歳のグラスは7か月間ナチス武装親衛隊(WaffenSS)に所属していた。2)その事実を60年間隠し、「故郷グダニスクで対空部隊に招集されたが負傷し、除隊した」という偽りの過去を語ってきた。けれども、この2点だけをとらえて、グラスを糾弾するのは難しい――当初の驚愕が冷めると、多くの人はこのような感想を抱いたのではないでしょうか。10代の若者がナチス親衛隊に7か月所属したことをどれだけ責められるのか。また、悪名高きナチス武装親衛隊も大戦末期には通常軍との区別は曖昧になっていた。60年間の沈黙についても、自らの「過去」を語ることなくこの世を去った人も多いはず。そう考えると、グラスをナチスや戦争犯罪に短絡的に結びつけて非難することを躊躇するのも当然と思われます。 しかし、グラスが沈黙していた60年間は「多弁」の60年間でもあったという事実から反応は硬化し、冷淡な様相を帯びてきます。ギュンター・グラスは戦後一貫して声高にナチスとドイツを批判し続けてきました。ホロコーストと切り離してドイツを語ることを認めない。戦時下のドイツ市民の「被害者」的な側面は切り捨て、「加害者」としてのドイツだけを考える、等々。かくのごとくドイツ人に自己批判を強制し、教訓を垂れてきた60年間でもあったのです。 ドイツとドイツ国民を一方的に断罪してきた、その硬直した態度は「デモナイズする(demonize/ demonizing)」という形容が適切でしょう。また、「私は理解しているが、ドイツ人は自分たちの罪深さを認めようとしない」と言いたげな態度。常に自らを倫理的上位に置き、お説教する彼の態度に「モラライズ(moralize)」する人特有の独善性を感じ取っていた人は少なくなかったはず。自らの過去を隠蔽したままdemonizing/moralizingに終始していた、と知ったとき「60年間聞かされてきたグラスのお説教は何だったのか」と多くの人が憮然たる思いを抱いた・・・これもまた当然のことと思われます。 ところで、一連の報道でSteidlという出版社の名前を目にして、私はある事件を思い出していました。Steidl社はギュンター・グラスの作品をほぼ独占的に出版していますが、数年前、私の夫(コールハマー)も1冊の本を同社から出すことになりました。『第3世界を犠牲にしているのか?(AufKosten der Dritten Welt?)』というタイトルで、西洋(先進国)は第3世界(発展途上国)の犠牲のもとに自らの繁栄を追求している、という左翼系・リベラル系知識人の言説に対する反論を著したものでした。執筆の動機は、「第3世界の問題について、西洋は現実的・倫理的に責任を負っている」という漠然と受け入れられている命題を自分なりに、実証的に検証してみたかったとのこと。 この内容について情報を得たギュンター・グラスは「出版すべきではない」と、Steidlに圧力をかけてきます。出版社にとってグラスは大スターですから、編集者はかなり困惑したようです。結局、グラスの信頼も篤く、第3世界問題に精通した人物(たしか、当時「国境なき医師団」のドイツ代表)に査読をお願いし、コールハマーの主張は正当なものだという保証をもらって出版されることになりました。自分とは異なる主張を自分の影響力(権力)を使って押さえ込もうとする・・・「民主主義のチャンピオン」ギュンター・グラスが裏ではこんなことをするのか、といささか驚き呆れたことを覚えています。グラスにとってはコールハマーの主張はそれ自体が「悪」であり、その悪を粉砕するためならばどのような手段も正当化されるということだったのか。これもdemonizingの一例ですよね。 ネオナチの動きは警戒しなくてはならないし、移民政策の転換期を迎え、人々の考えも揺れている。だからこそ、情報を広く求め、それらを丹念に分析して思索を深めていかなくてはならない。いきなりナチスに短絡する議論はあまりに不毛です。デモナイズされる日本とドイツ――これは日本とドイツが今なお敗戦というスティグマを負わされているということなのでしょうか。だとしたら、日本やドイツを標的にしたdemonizingは当分の間続くということなのかもしれません。
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