小論マエストロ

1.私的「安楽」主義課題 課題文 マエストロ解答 ▼解説
小論マエストロでは、なかなか上手い奴だ、お見事! といえる小論文を紹介します。主張している内容が正解かどうかよりも、論理が通っているか、構成が考えられているか、証明がきちんとできているか、そしてアイディアが月並みでないかという点を判断基準としています。ほかの人の書いた好例ってなかなか刺激的ですよ。課題文とセットで読んでね。


1.私的「安楽」主義
●課題文
次の文章を読み、著者のいう「今日の私的「安楽」主義」の実例をあげて、「今日の特徴的な精神状態」について自分の意見を述べなさい。なお、解答文は所定の解答用紙に、600字以上1000字以内で書きなさい。ただし、句読点およぴ改行のために生じる余白も字数に含みます。

 抑制のかけらもない現在の「高度枝術社会」を支えている精神的基礎は何であろうか。言い換えれば、停まる所を知らないままに、ますます「高度化」する枝術の閉発をさらに促し、そこから産まれる広大な設備体系や完結的装置や最新製品を、その底に隠されている被害を顧みることもなく、進んで受け容れていく生活態度は、一体どのような心の動きから発しているのであろうか。「追いつき追い越せ」から「ますます追い越せ」ヘと続いてきている国際競争心等々の他に、少なくとも見落してはならない一つの共通動機がそれらの態度の基底にあって働き続けている。
 それは、私たちに少しでも不愉快な感情を起こさせたり苦痛の感覚を与えたりするものはすべて一掃してしまいたいとする絶えざる心の動きである。苦痛を避けて不愉快を回避しようとする自然な態度の事を指して言っているのではない。むしろ逆に、不快を避ける行動を必要としないで済むように、反応としての不快を呼ぴ起こす元の物(刺激)そのものを除去してしまいたいという動機のことを言っているのである。苦痛や不愉快を避ける自然な態度は、その場合その場合の具体的な不快に対応した一人一人の判断と工夫と動作を引き起こす。通常の意味での回避を拒否して我慢を通すことさえもまた不快感を避ける一つの方法である。そうして、どういう避け方が当面の苦痛や不愉快に対して最も望ましいかは、当面の不快がどういう性質のものであるかについての、その人その人の判断と、その人自身が自分の望ましい生き方について抱いている期待と、その上に立った工夫(作戦)の力と行動の能力によって初めて決まってくるものである。そこには、個別的具体的な状況における、個別具体的な生き物の識別力と生活原則と知恵と行動とが、具体的な個別性をもって寄り集まっている。すなわちそこには、事態との相互的交渉を意味する経験が存在する。
 それに対して、不快の源そのものの一斉全面除去(根こぎ)を願う心の動きは、一つ一つ相貌と程度を異にする個別的な苦痛や不愉快に対してその場合その場合に応じてしっかりと対決しようとするのではなくて、逆にその対面の機会そのものをなくしてしまおうとするものである。そのためにこそ、不快という生物的反応を喚び起こす元の物そのものをすべて一掃しようとする。そこには、不愉快な事態との相互交渉がないばかりか、そういう事態と関係のある物や自然現象を根こそぎ消滅させたいという欲求がある。恐るべき身勝手な野蛮と言わねばならないであろう。
 かつての軍国主義は異なった文化社会の人々を一掃せん滅することに何の躊躇も示さなかった。そして高度成長を遂げ終えた今日の私的「安楽」主韓は不快をもたらす物すべてに対して無差別な一掃せん滅の行なわれることを期待して止まない。その両者に共通して流れているものは、恐らく、不愉快な社会や事柄と対面することを怖れ、それと相互的交渉を行なうことを恐れ、その恐れを自ら認めることを忌避して、高慢な風貌の奥へ恐怖を隠し込もうとする心性である。
 今日の社会は、不快の源そのものを追放しようとする結呆、不快のない状態としての「安楽」すなわちどこまでも括弧つきの唯々一面的な「安楽」を優先的価値として追求することとなった。それは、不快の対極として生体内で不快と共存している快楽や安らぎとは全く異なった不快の欠如態なのである。そして、人生の中にある色々な価値が、そういう欠如態としての「安楽」に対してどれだけ貢献できるものであるかということだけで取捨選択されることになった。「安楽」が第一義的な追求目標となったということはそういうことであり、「安楽への隷属状態」が現れてきたというのも、またそのことを指している。休息すなわちひと時の解放と結ぴつくのであって、楽しみや安らぎなら隷属状態とは結びつかない。
 むろん安楽であること自体は悪いことではない。それが何らかの忍耐を内に秘めた安らぎである場合には、それは最も望ましい生活態度の一つでさえある。価値としての自由の持つ第一特性である、価値を自由にし他人に自発性の発現を容易にするからである。しかし、ある自然な反応の欠如態としての「安楽」が他のすべての価値を支配する唯一の中心価値となってくると事情は一変する。それが日常生活の中で四六時中忘れることの出来ない目標となってくると、心の自足的安らぎは消滅して「安楽」ヘの狂おしい追求と「安楽」喪失への焦立った不安がかえって心中を満たすこととなる。こうして能動的な「安楽への隷属」は「焦立つ不安」を分かち難く内に含み持って、今日の特徴的な精神状態を形づくることとなった。「安らぎを失った安楽」という前古未曾有の逆説がここに出現する。それは、「ニヒリズム」の一つではあっても、深い淵のような容量をもって耐えかつ受納していく平静な虚無精神とは反対に、他の諸価値をことごとく手下として支配しながら、ある種の自然反応のない状態を追い求めて上まないという点で、全く新しい新種の「能動的ニヒリズム」と呼ばれるべきであるのかも知れない。

(原文註)「根こぎ」─それこそすべての形態の全体主義支配に根本的な特徴なのである。それは人種・階級等の抹殺から「害虫駆除」の「マス・ケミカル・コントロール」(ジュリアン・ハクスリー)にまで及ぶ。

私的「安楽」主義

●解答
 筆者は私的「安楽」主義を、不快の原因を絶滅しようとする試みである、と述べているが、「安楽」は衝動と充足のギャップの極小化である、という見方もできる。時間であれ、満足度であれ、ある一つの衝動をどれだけ速く、あるいは誤差なく実現するか、その差が小さければ小さいほど、我々の「安楽」は達成されている、ということができるだろう。現代社会の技術や工夫はこの差を縮めるためになされている。
 しかし「安楽」は確実に人間をスポイルする。なぜなら、衝動が直ちにしかもすべて充足されることによって、二つの意味で、人は変化のチャンスを失うからである。まず衝動が直ちに満足されると言うことは、現実や他人に対する工夫や警戒心を失わせる。工夫と警戒心は人間の技術の基本だ。これは現実処理能力そのものだから、現実に適切に対処することができなくなることを意味する。また自分の中の衝動をそのまま実現できない時は、その衝動を吟味し優先順位をつけ、どうしても必要性のある部分だけ実現する、ということになる。その過程で自分が本当に必要としているものが分かる。つまり衝動は対象化されて、洗練されるのだ。これは真の自分の発見という意味も持つだろう。つまり衝動がすべて実現できるということは、逆に自分の発見や成長がない、ということでもある。
 たとえば携帯電話では、他者と連絡を取りたいという衝動が瞬間的に実現される。しかし連絡してみると、大した用事もないことに気づく。当たり障りのない挨拶と、「どうしてるー?」という質問で終わってしまうことも多い。それに対する答えは、「別にー」と決まっている。会話の時間は確かに消費されるが、焦点が定まらずに流れてしまう。時々私は何のために電話しているのか、自分でも不思議に思う。むしろ、本当は電話したくないのに、ケータイに電話させられている、と感じてしまう私は変なのだろうか・・・
 自分という感覚は、自分だけで支えることはできない。むしろ他者との「相互交渉」つまり衝突や対立によって、相対的に決まっていく具体的なできごとであろう。自分の衝動が全部肯定され、全部実現されるところでは、抵抗する他者を感じられないとともに、自分を堅固に構成する手がかりも失われてしまう。つまり自分の快を何よりも優先することで、私的「安楽」主義は、安楽だけでなく「私」でさえも希薄化してしまうのである。
私的「安楽」主義

●解説
 
「今週のマエストロ」解説のコーナーです。このコーナーでは、受講者の皆さんが書いた面白い小論文を紹介します。
だいたい私、どういうのが小論文としていいのか、よくわからないんです。
それは当然だね。小論文に限らず、文章の評価はむずかしい。たとえて言えば、塩辛のうまさがわかるようなものかな?
塩辛?
子供のときに塩辛って好きだった?
まさか、そんなの好きだったら変ですよ。
僕も、子供のころは何でこんな生臭いものが大人は好きなのか、と思っていたけど、今となっては大好物だね。
私は今でも嫌いだけど。
大人にならなければわからない良さというのもあるんだよ。
小論文もそうだつて言うんですか?
そうだね。言葉の基本的な使い方がわかって、かついろいろ経験をつんで、はじめて良さがわかるんだ。
小論文は大人の味ですか?
君も一応修行したから、だいぶわかるようになっていると思うけどね。

難しい課題文は要約からはじめる

さて、今回の課題ですけど、難しいですね。
筆者が学者だから、ある程度仕方ない。これは早稲田の一文で出た問題だけど、いかにも早稲田好みっていう感じだね。課題文が難しい場合は、まず理解力を試されている。そのためにも、課題文を要約しておいたほうがいい。「私はこの内容がわかっていますよ」というアピールだね。
なるほど。
それに要約しとかないと、書いてるうちに課題文の内容から離れていっちゃうことがよくある。全部答案化するかどうかは別にして、メモとしてでも要約しておく。
この場合、どう考えるんですか?
これは評論文だから、問題と解決というスタイルでできている。
問題はもちろん「現代の高度技術社会を支えている精神的基礎は何か?」ですね。その解決は「不愉快や苦痛の原因を、完全に除去しようとする心の動きである」。
そう、とりあえず問題と解決が書いてあれば、要約はおしまい。
この生徒の解答を見てみましょうか? 「筆者は私的『安楽』主義を、不快を絶滅しようとする試みである、と述べている」と書いてあります。
短くてわかりやすいね。それに「筆者は…と述べている」と筆者の意見と自分の主張を区別しているのもいい。要約を、いつの間にか自分の意見として書いちゃう人も多いんだよ。そうすると、課題文の意見をそのまま繰り返してしまう、という悲惨な結果に陥る。だからちゃんと「筆者は…と述べている」と枠付け、自分の意見と区別する。
その後に「しかし、安楽は…という見方もできる」とあるのが、それですね?
自分の意見は、人の意見との違いとして考える。
だから、「しかし」という接続詞でつなげるのか。
ここまでは、基本だね。この答案例は、そこの所がきちんとできている。

ていねいな説明とさらなる展開

その先はどうですか?
説明がきちんとしているのも、この答案例の特徴だ。二文目の「極小化」という難しい単語を三文目では「ひとつの衝動を…その差が小さければ小さいほど」などと詳しい表現で置き換え、丁寧に説明している。説明の充実もいい答案の条件だね。
この「安楽」の問題点が、次の段落で展開されていますね。
そう、いつも「問題−解決」という構造を忘れないことが必要だね。ある問題を解決するために、さらに次の問題を提出する。それを吟味し解決する。この繰り返しがしこうというものなんだ。問題解決こそが小論文を先に進行させるエンジンと言ってもいい。「衝動がすべて充足される→変化へのチャンスを失う」という理屈にはついてこれるかな?
理由が二つありますね。ひとつは、不安と警戒心がなくなり、現実対処能力がなくなる、ということ。二つ目は、衝動の吟味と対象化がなくなる、ということ。
そう、第二段落では、その二つの概念が何回も言い換えながら説明されている。二つの理由の間は、接続詞「また」でつながれている。うーむ、接続詞の使い方も完璧だ。
熱入ってますねー。第三段落はどうですか?
ここは例示がちゃんとしている。携帯電話という現代的な話題を使って、応用している。こういう風に理論を現実問題に応用できる、というのも論理能力の重要な要素だね。
でも、これちょっと古くないですか? 私、携帯電話よく使うけど「どーしてるー?」「別にー…」なんて言わないですよ。
うむ、さすがだね。実はこの部分は私が添削したところなんだ。
やっぱり、そーかー。なんとなくオヤジくさいと思ったんだ。
ま、追求はそのくらいにして。ラストの段落は「安楽」を「自分を希薄化する」ものとして批判しているところだね。
それが結論ですね。
つまり、要約−反対−理由・説明−例示−結論という構成がきれいに決まっていることと、その中で展開されている議論が粘り強く、例示が現代的である、ということが評価できる点だね。
この人、語彙が豊かですね。
そうだね。抽象的な語彙をらくらくと使いこなしている。論文の表現力とは、そういう力も評価されるんだ。

All text and images (c) 2001 VOCABOW. All rights reserved.