2006年8月
8/30

●「夏のセミナー」終了! 

 やっと「法科大学院小論文 夏のセミナー」が終わりました。ボカボスタッフ一同肩の荷を下ろして、少しリラックス。今回は受講者が多く、開催日前に締め切りました。これからも、こういうことが続くかも知れませんので、お申し込みはお早めにね。

 セミナー受講者は非常に満足してくれたみたいでホッ。「いい先生といい仲間に会えて、今回参加したことは正解でした」というメールを頂きました。こういうメールは文句なくうれしい! ねらい通りの結果だからです。

 Real Schoolの良さは実際に教師と直面して授業が受けられるというだけではありません。むしろ、自分の相対的位置が分かる、ということにあるのです。アリストテレスの言うとおり、人間は「社会的動物」なのですね。あるグループの中での位置を確かめずにはいられない。

 とくに、大学院を受ける人は大人が多いせいか、仕事で忙しく、いつもは一人で勉強せざるを得ない。どうしても不安になる。自分は今どのくらいの学力なんだろうか、どのくらい勉強すればいいのだろうか、どんな資料を読めば基礎知識が得られるのだろうか? 相談できないので、疑心暗鬼に陥っちゃう。

 もちろん、WEBでも、私はそういう人を出来るだけサポートするのですが、Real Schoolになると、今度は「同志」の間での情報交換が俄然活発になる。皆、同じ目標を持っているから、話は高いレベルでもパッと通じるし、悩みを言うとあれこれ自分の経験を話してくれる。これがすごく参考になるのです。

 教育というのは、そういう面がなければダメです。教師と学生という縦の関係からも学べるけど、学生同士という横の関係から学ぶことが多い。自分と似たような知的レベルであることが大事です。その間で競争心も湧くし、励みにもなる。今回は、そういう面が体験できるように、いろいろ工夫したつもりです。

 受講者たちの志望校は重複していて、実はライバル同士なのだけど、それでも関係は敵同士というよりも、むしろ「仲間」になるというのは、逆説的で面白いですね。でも、自分と拮抗するライバル同士というのが、一番理解が深いのかも知れない。

 10月には適性試験対策Start Up!小論文初級Start Up!が始まります。前にも書いたけど、適性対策だけにかまけて小論文や志望理由書をおろそかにすると、後で大変なことになります。うまくバランスを取るためには、早めに手を打つことです。10月開講の「リアルスクール Start Up!」は有効ですよ。

●「物語の衰退」から「大きくて粗雑な物語」へ

 ところで、夏のReal schoolが終わって、久しぶりに新聞をゆっくり見ていたら、8月28日の朝日新聞夕刊に早稲田の鹿島先生が「文学部の解体」について、面白い文章を書いていました。

 今や文学部は表現・ヴィジュアル系と社会・心理学系に分断され、かつての主流を占めていた哲学・文学・史学が地盤沈下している、というのです。表現・ヴィジュアル系はIT社会のコンテンツ作り、後者の社会・心理学系は就職に強い。哲学・文学・史学は物語の創出に関わる学科だったけど、かつての勢いがない。現代では「物語人間」が不要とされているのではないか、という大意でした。

 この議論は別に珍しくない。文学部の解体はしばらく前から言われていました。友人の日本古典文学のM教授は、「文部省は文学部なんて東大と京大の二つにあればいいと思っているに違いない」と憤慨していましたが、その通りでしょうね。「何でもあり」のポストモダン的風潮の中では、正統性の基準はなくなり、複数の物語が脈絡なく流通する。そこに価値の上下も付けられない。ヒエラルキーではなく、シンクロニシティやセレンディピティばかりになる。

 拙著の『だまされない〈議論力〉』にも書いたけど、今一番強力なストーリーは「人それぞれ」です。あなたはあなたの良さがあり、私には私の良さがある、みんな違ってみんないい、という並列主義のスローガン。それがいかにコミュニケーション能力を低下させるかは、もう論じましたのでここでは言いません。『だまされない〈議論力〉』を見てください。しかし、この文学部の解体=物語の衰退構造はもっと深刻な意味も持っていると思う。

 なぜなら、最近の映画やアニメで感じるのは、絵の精巧さに比べて、あまりにも物語が粗雑だからです。前の三日坊主(2004年5月11日)に押井守の「イノセンス」
のことを書いたけど、特撮や映像の美しさに凝るあまり、ストーリーがすごく陳腐になっている。しかも、その陳腐さに見る方が気づいていない。それどころか、このストーリーは難解だ!とか、スゴイ!と思ってしまっているのです。

 ちょっと古いけど映画「マトリックス」を挙げましょう。あれは「独我論」という英米哲学ではよく知られた主題から始まっているのは知っていますよね? 21世紀のニューヨークに生きていると思っていたら、実はそれはカプセルの中で見た夢だったというところ。そこは私は面白く見たのだけど、後半にその主題が続かない。陰謀と闘う、という陳腐なストーリーになってしまう。

 同じことがもっと極端な形で示されたのが、「ローレライ」という戦争映画でした。これも、前に三日坊主で書いた(2005年3月15日)けど、とにかく物語のしまりがない。特撮は良くできていたけど、それ以外のストーリーが全部因果関係がずれていて、すごくウソっぽい。心理の描写も浅い。そのくせ、大事件ばかり起こる。

 これって、ヴイジュアルの優勢と関係あると思う。ヴイジュアルというメディアの特徴は「並列性」です。多様な要素が脈絡なく一気に提示される。それぞれの要素は同時にそこにある、というだけで因果も必然性もない。いろいろな要素がバラバラにあるだけで、そこに統一的原理はない。この空白は結構致命的です。

 統一性の空白がどういう結果を生むか? カルトに入った人たちの読書体験が教えてくれる。彼らは、教義が書いてある「聖なる書物」を読む。すると、その中ではシンプルな原理で、何でも説明してある。「初めて世界の原理が分かった」と感激する。後はその原理を信じ込んで、まっしぐら。

 何で、こういうことが起こるのか? 簡単です。様々な物語の類型やパターンを知らず、それらの得失を経験したことがないからです。どのストーリーもそれぞれ説明できることがあり、逆に説明できないことがある。その矛盾の感じが分からないから、一つのストーリーを万能だと信じ込んでしまう。

 しかも、免疫がないから、派手なストーリーについ幻惑されてしまうのです。超能力とか、世界を救う使命だとか、そんな誇大妄想にすぐ行き着く。ハルマゲドンなんて破滅的物語もその一例ね。

 そういえば、オウム真理教の物語もすごく稚拙だったことを覚えていますか? 伝道ミュージカルとか作ったらしいけど、とにかくとても「醜悪」。センスが悪いとしか言いようがない。そういえば、麻原が選挙に出たときは、運動員が全員麻原の面を被っていた。あの面を素晴らしいと思う感覚はスゴイね。

 「美」とはバランス感覚だと思います。一つの原理だけを闇雲に信じない。だから、多様な要素をうまくアレンジして平衡を取る。それが、「深み」や「複雑性」や「どんでん返し」につながっていきます。でも、一つの方向に行きすぎると「グロテスク」や「退廃」になってしまうからその一歩手前で踏みとどまる。それが美です。もちろん、「グロテスクな美」もあるけど、それもクラシックな美とのバランスの上に成り立つ。

 そのためには、周到に価値判断しなければならない。何が善くて何が悪いか、何が美しくて、何が醜いか。因果と価値の鎖を張り巡らし、意外性に満ちつつ、必然的な構造物を作らねばなりません。あるいは、必然性を笑い、悲劇的な偶然性を導入する。さらには、カーニバルなどすべてを相対化する祝祭にするとか…。

 でも、どの物語類型もそれなりのパターンがあり、どの物語も世界全体をrepresentできない。この物語の相対性を知りつつ、物語を紡ぎ、それを生き、遊ぶこと、これが大人の精神だと思うのだけどなー。何で真面目に信じちゃうんだろ?

 ヴィジュアルと経済にばかりかまけているうちに、このストーリー構成の微妙な感覚が狂ってくる。だから、そのバランスを取ろうとむやみに壮大に向かってしまう。だから「ローレライ」みたいに、人物がリアリティを持たないまま、やたらと「日本のために」などと力む。

 ポスト・モダン以降、「大きな物語の解体」ということがよく言われたけど、今や「小さな物語」まで徹底的に解体したため、その空白が耐え難くなっている。そこが「大きくて粗雑な物語」が出てくる土壌を作っていると思います。最近の妙なナショナリズムの興隆もその一例だね。

 政治哲学者ハナ・アーレントは『全体主義の起源』で、「反ユダヤ主義」を「貧乏人の社会主義だ」と看破した。しかし、「貧乏人」は何も金がない人ばかりを言うのではない。ブルデューが言う「文化資本」が欠乏している人をも指している。上等な物語にアクセスできないから、一番分かりやすい物語、知的緊張が要らない排除の幻想に飛びつくのだね。

 小論文を書くとは、社会現象について自分なりの物語を作ることだと思います。いろいろな物語を自分なりに紡いでいる内に、自分の物語センスが洗練されてきて、なまなかな物語にはだまされにくくなる。「超能力」だとか「世界を救う少女」などの粗雑なイメージがいかにばかばかしいか分かる。

 そういう意味では、『だまされない〈議論力〉』という拙著の題名は、まさに私の実感です。「夏のセミナー」の人も、この能力は大分向上したと思いますよ。


8/24

川下りの夢―三級の瀬

 もう八月もそろそろ終わり。気が付いたら「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」みたいな風情がひしひしとしている。

 「夏のセミナー」も残すところ、後2回。終盤戦にさしかかってきました。どこにも遊びに行かないままに、「あっ」という間に夏が終わっちゃったかなーという感じ…。

 こうなったきっかけは、もちろん7月中盤から。添削が殺到し、とにかく8月になったらホッとできるのだからと我が身を励ましていたら、とんでもない。止まるどころか、次々原稿締め切りや講演やらと、まさにジェットコースターのように時間が流れる。
 とくに『だまされない〈議論力〉』は出版されて一週間弱なのですが、今日、はや重版が決まったとか…。何だか、時間の流れがすごく速い。激流が渦を巻いていて、その中を川下りしている感じ。夏だから、ついこういうイメージになっちゃう

 昨日、椎名誠の『続岳物語』を読んでいたら、沈(チン、転覆)の話が出ていました。懐かしかったですね。カヌーに頻繁に乗っていたのは数年前まで。よく行っていたのは湖だったから、そこでは沈(チン)しなかったけど、那珂川ではよくやった。調子よく漕げているなと思っているときに限って、突然頭が水の中に入る。脱出して浅瀬に行って、水をかい出して川下りを再開!
 こう書くといかにものんびりしているのだけど、沈したときはそれなりに必死。格好も悪いし…。でも、川下りに沈はつきものですから、いちいち気にしてられない。それでも、向こうを遙かに見渡してみると…

 まだトロ場(流れがゆったりしているところ)はずっと先みたい。引き続き、締め切りが残っています。それらが終わったら、次の新刊書が向こうで白波を立てて「おいでおいで」と手招きしている…。
 うーむ、これはカヌーで言うと「三級の瀬」(=波が高く、水中の障害物多し。かなり危険。初心者はよく偵察しておくこと)という感じですね。

 しかし、「三級の瀬」と言えば、世間も同じかもしれない。世の中を渡っていくのはそれなりに危険です。とくに昨今のメディアからの情報シャワーは、漫然と浴びると危なさがある。上に挙げた『だまされない〈議論力〉』はボカボ流のメディア・リテラシー教本です。この本をよく読んで、言説の川では沈しないで、スイスイ下って欲しいですね。

8/18

暑く忙しい夏

 はっと気づいたら、もう三日坊主を3週間以上も書いていませんでした。今までの最高沈黙記録です。原因はハッキリしています。忙しすぎた、の一言。とくに早稲田・中央・慶応の出願が今年はほとんど重なったため、7月の最後の週はテンサク・コメント・アンドロイドと化していました。
 一度こういうモードにはまり込むと抜け出すのが大変。それから先も延々と添削のし続け。読みかけだったアリストテレスも中断して、ひたすらテンサクしていなければ気が済まない添削アディクト。私は精神にも絶対「慣性の法則」はあると思うな。

 しかし、こういうモードになってしまったのは、ロースクール受験者の文章があまり良くないという状況も関係しています。早稲田の申述書は一昨年とほぼ同じ出題で、あまりにも芸がないけど、それに対して受験者たちが書いたドラフトも「あれぇー!」の連続でした。相当できるな、と日頃思っていた人でさえ、一体どうしちゃったの? というような出来が多い。
 ロースクールに入るポイントは適性対策だというのが常識になりすぎたのかもしれませんね、適性に時間をかけすぎて、小論文や志望理由書まで手が回らない、という人が多い。そういえば、今年の傾向として適性第一部の点数が第二部よりよい人がぐっと増えた。しかも、去年までは第一部がよい人は第二部も良かったのだけど、第一部だけよくて第二部はメチャクチャという人も結構目立つ。それは第一部の方が勉強しやすいけど、弁護士になってまでパズルやっているわけではないのだから、文章の方ももう少し頑張って欲しいな。

 今年は早稲田の申述書は良い出題ではないと思うけど、それでもきちんと書くには、それなりの形式意識も背景知識も必要です。しかし、そういうものを初めからクリアしている人はすごく少ない。指定を良く読んでいない、形式はバラバラ、対応する知識・教養が不足という例があまりにも多い。これで、まともに法律文書が書けるのかしら、とつい心配になる。だからあれこれうるさくアドバイスする。なかなか良くならない。アドバイスの量が増える。必然的に時間なくなる、とこういうわけです。
 どんな出題にせよ、読んで恥ずかしくない文章を書くには、ある程度の時間が必要です。私は前から、最低10回は書かないと伸びが実感できないよ、と口を酸っぱくして言っています。来年ロースクール受ける人は、今年の秋ぐらいから飛び飛びでも良いから、小論文の課題をやった方がよいと思いますよ。それをやらないと、また適性後にあわてふためくことになりかねない。完全に出来るようにならなくても、ある程度やっておけば後が格段に楽です。秋から法科大学院小論文対策の講座「小論文Start up!」を開くのはそういうわけです。

 まあ、そういう忙中忙の中でも、いろいろやることはやってきました。一つは去年から予告していた講談社現代新書『だまされない〈議論力〉』がついに出版されること。何と7月25日の時点で、その最終校正をやっていたのです。添削と校正のダブル。この世で一番神経使う仕事の両極ですね。HPに紹介を載せておいたので、そこを見ること! 書店に行って買うこと! 問答無用!(なんて、これじゃ議論というテーマと矛盾するけどね…)
 もう一つは、我が先祖の故郷、群馬県下仁田町に新プロジェクトを準備。その第一回目の作業を6人がかりで8月初旬に行いました。どんなプロジェクトかはもう少ししたらご報告できるでしょう。お楽しみに。あっ下仁田といえば長谷眞砂子に勧められた本が面白かった。『こんにゃくの中の日本史』(武内孝夫著)。こんにゃくって今のIT産業みたいに投機の対象だったんですね。一読をお勧めします。


 それから、『小論文夏のセミナー』も現在進行形。受講者が多すぎて、途中で締め切ってしまいました。ギリギリで受講を考えていた方はゴメンナサイ。これから、こういう場合が多くなると思うので、受講の申し込みはお早めに! 講師は私とサクライ君。受講者は学生、通訳、新聞記者、建築士などいつもに増して多士済々、キャリア色々。当然、議論も細部にまで渡り、熱を帯びます。毎回、鋭い質問と笑いが絶えません。
 そういえば、HPに新しい読み物が増えたのにお気づきでしたか? 『林はる芽の「ベルリン便り」』。私のお友達の日英仏独と世界を股にかける翻訳家林はる芽女史の連載エッセイです。第一回目は軽く流していただいて、サッカーのジダンについて。それでも、凡百のスポーツ評論とはひと味もふた味も違う集中力と教養の溢れる名文をお楽しみ下さい。

 うーん、こんなにボカボは多角経営。これでは、私たち全然時間足りませんよね。今一番欲しいのは、やっぱり時間。それから、あの二十代の頃の不死身の体に戻れたら、と強く強く思います。